著者:須賀敦子 出版社:筑摩書房 出版年:1998年(文庫版は2001年)
須賀敦子はイタリア文学者として川端康成や谷崎潤一郎、安部公房のイタリア翻訳を手掛け、文化の継承に多大な貢献を果たした人物だ。また随筆家としてイタリアでの経験をはじめとしたエッセイを数多く残しており、その文からは過した国の熱量や当時の体験を通じた異邦人としての彼女の細やかな心象が表現されている。
本書『遠い朝の本たち』は須賀の最晩年の随筆集である。若き日の須賀敦子と家族や友人とのエピソードや戦禍の学生時代に迷いながらも文学を学び続けた心中を回想している。いくつかの例外もあるがこの作品では須賀は人生における本との出会いを主軸に据えている。
本を通じて描かれる須賀の心の動きは、読み手の読書経験とも紐づいて実に活き活きと立ち上がってくる。親に読むことを禁じられていた実録犯罪本を内緒で読んでしまった挙句、そのグロテスクな描写を思い出して夜も眠れなくなってしまった少女期のこと、クラスでこっそりと回覧されていた『サフランの歌』(当時戦争の足音が近づいていた日本では「サフラン」という外来語が検閲に晒されることが危惧されていたのではないかと彼女は述懐する)の美しい歌とイラストに危険なロマンティックさも合わさって夢中になった女学生期、大学院に入ってからは父の勧めからそれまで自身では手に取ることのなかった森鴎外の史伝を手にし、それまで知っていたつもりの父の新たな一面を垣間見るとともに、語ることもできないまま世を去ってしまった父の姿を述懐している。読者は現代日本の文筆家の大家としても見られるような須賀の物事への深い洞察を書き記す力に夢中になるだけでなく、若かりし須賀の好奇心旺盛な様に自身の体験を重ね合わせながら彼女の心に触れられるような親しみを覚える。本を通じて浮かび上がる感情がいかに豊かで普遍的なのかということを思い至るのだ。
そうして本書を読み進めるうちに、本というものが同時に2つの役割を果たしていたことにも気づく。戦況が悪化するなか、須賀たちにとって本を読むことは夢を見続けるために潜り込む安らかな洞穴であった。しかし同時に、それは外の世界で徐々に後ろめたい視線を向けられつつあった物を心置きなく楽しみ、新たな関心の出入り口を見出すことのできる自由な空の役割も果たしていたのである。そのことを須賀をはじめとした少女たち、その周囲の大人たちはよく理解し、味わい続けることを優先まではいかなかったとしても否定することは決してなかったのである。
もちろん誰もが同じことができるわけではない。時代の過酷さを照らし合わせると、大手経営者の家に生まれた彼女の境遇が特異であったことは無視できないだろう。当時女性が戦後間もない日本で文学の修士課程に在籍し、留学できるということは非常に珍しかった。それでも彼女が環境だけに頼らずに自らの選択で道を開き、文学者として本を異国に伝えるという仕事を成したその後押しをしたのは紛れもなく、「遠い朝」に彼女が心踊らせながらページをめくった本であることは違いない。本といってもそれは文学だけでなく挿絵を施したものや歌、あらゆる本である。彼女の彩り豊かな読書経験は文学が、ひいては芸術が人の心に意思を与える証左だと彼女は示したのである。
書き手:上村麻里恵