著者:藤田貴大 出版社:マガジンハウス 出版年:2017年
「ぼく演劇作家なのだけれど、ぼくの作品に出演するのはほとんどが女子だ。理由は明確である。ぼくが四六時中、女子のことばかりかんがえているからである。…(中略)…とにかく女子のことばかりをかんがえすぎていて、頭が腐っているのだ。」(藤田,14)
本エッセイは劇団「マームとジプシー」の主宰であり、劇作家で演出家の藤田貴大が雑誌『anan』他で紡いだ、数多の女の子に対する煩悶のエッセイ集である。彼の女の子への執着はもはや気持ち悪いと言っていい。ある時はすれ違う女の子、またある時は劇団に所属する女優、そして自身の家族の身体を通じて藤田は女の子に対する底なしの好奇心を頭の中でもやもやと育んでいく。すれ違った女の子の髪の匂いからシャンプーやコンディショナーに思いを巡らすのはまだいい方で、見かけた人が鼻でも啜っていようものなら鼻水を舐めたいと思うのは当たり前、そして当然のように女の子の恋人に嫉妬する。見ず知らずの電車で会った女の子の会ったこともない人物の影に、である。その執着に慄くような気持ち悪さを感じると同時に、どこか救われたような気分になるのはなぜだろうか。そしてこの「女の子」が必ずしも若い女性の理想像である必要は無くなった時代に「女の子」の存在に私たちはどう向き合えば良いのか。
藤田の素朴な女の子に対する思索は彼女たちの日常のさりげない動きや身体から発せられる。こだわりに端を発し、彼女が生きてきた軌跡を徹底的に想像し、紡がれてきた歴史を丸ごと慈しむことへと繋がっていく。藤田の生温かい視線に犯罪的な不快感がないのは彼が女の子たちをまるきり別次元の「モノ」ではなく、歴史や偶然の詰まった体温をもった存在として見做している点が大きいだろう。藤田の追懐や妄想を辿っていると、個人とは身体や行為、例えば臭いにも現れ、それらは個人の軌跡であると同時にこれから歴史になるエッセンスなのだと強く感じる。何を選んだか、どう選択したか、どんな人生を送って、なぜそう考えたか…。それらがごちゃ混ぜになったものがなんてことない動作に現れる。直観も理屈なきポリシーもこだわり抜いたことへのプライドもその全てが自分の思いがけないところで他者が見る個人を作り上げている。
特に女の子はその混成が強く、藤田は女の子の身体に対し殊にカオスを見ているに違いない。
ところで、「女の子」とはある種時代への逆行とも、揺るぎないスタイルとしても捉えられる。男女という区別、そしてその理想像はおろか、男女の概念も固定的でなく可変的なものであるという主張はより多くの人が触れるものとなった。
そんな時代にあってもなぜ「女の子」はこうも人の鏡となり、時に仮想敵となって私たちを時に惹きつけ、心を病ませるのだろう。もちろん誰しもが「女の子」に強力な感情を抱いてる訳ではない。ただ、おっさんという概念とは天と地ほども違い、イケメンよりも柔らかく、そして強烈に人を惹きつけてやまない、当の女性ですら嫉みながらどこかでその輝きに吸い寄せられてしまう。彼女たちは一体いかなる存在なのだろうか。私たちもまた女の子の抗い難い魅力からどうしても目を背けることができない。
女の子への問いは終わることはなく、そして現れる女の子の像にもまた際限はない。探究は限りなく続いていくのだ。そんな我々を尻目に女の子たちは今日も思考の森を軽やかに駆け、手からすり抜けていく。あらゆる行為と身体性が無限の組み合わせで混ざり合う世界の中で、彼女たちは最も可愛らしく、不可解なカオスとして掴みどころなく逃げていく姿にもはやたくましさや美学を感じる。藤田貴大はその探究者の中でもとりわけ奥深くに分入り、そして女の子の住まう森から永遠に帰ってくることはないだろう。
書き手:上村麻里恵