ジェンダー写真論 増補版 BOOK LAB.書籍紹介

著者:笠原美智子 出版社:里山社 出版年:2022年

著者の笠原美智子(現在アーティゾン美術館副館長)は写真を専門に長く学芸員を務めてきた人物である。社会学を学ぶために留学したアメリカで写真と出会い、帰国後から数年前まで東京都写真美術館や東京都現代美術館の学芸員として日本の写真美術の展示の最前線を走ってきた人物である。本書は彼女がこれまで手がけてきた展示やエッセイの中でも、特にジェンダーに関する論稿を集めたものだ。

笠原の論は日本における社会問題の盲点を掘り下げ、そして様々な国籍や社会背景を持つ多くのアーティストの特色の双方、加えて社会の構造とアーティストのスタンスに対する批評も含まれている。写真を美術の文脈で語る時、あるいはジェンダー論を美術作品から語る時、この1冊で写真史やアーティストの名前にとどまらず、アーティストがどのようなスタンスで作品を作り続けてきたのか、特にフェミニズムを主軸としたジェンダー論の視点から作品の批評や指摘について多様で重厚な視点を取り入れることができるだろう。

数多くの展覧会を企画してきた笠原だが、展示に合わせて執筆されたさまざまな小論から彼女がこの国の芸術やジェンダー観にまつわる問題、そしてその議論の進み具合の遅さを深刻に受け止めていることが如実に伝わってくる。彼女が89年に写真美術館で学芸員のポストに就き、91年に初めて主催した、フェミニズム論を主軸としたものでは日本最初の展覧会「私という未知へ向かって―現代女性セルフ・ポートレイト展」から現在に至るまで30年近い年月が経過している。彼女が30年近いキャリアの中で残した展覧会の多さとその内容の濃さに驚くと共に、同等の規模の活動が未だ伸び悩んでいることにもどかしさを禁じ得ない。本書中には「私という未知へ向かって」を初め、20年近く前に発表された論稿も収録されている。しかしその内容が少しも古びていないのである。前向きに捉えるならば、それは笠原の選ぶアーティストたちの作品が皆固有の視点を有し、それらが高い普遍性を持つ極めて質の高いものであるからとも言える。しかし当時のアーティストたちや学芸員がそれを展示にすることで示してきた問題提起が今日「そういった問題提起がなされてきた歴史」としてというよりもむしろ「今現在も解決されていない事象の指摘」として立ち続けているということにも気がついてしまうのだ。語られるべきこととそれに対する行動がどこまでも脱線やすり替え、後回しにされた結果、その進捗がまるで蝸牛すらも追い越していけそうなのろさをしていることだ。見えなくなっている、見えなくさせられていることこそがこの遅延の大きな要因の一つである。このテクスト群を読んでいるとそう思えてならない。

笠原は決してこの国の盲点となっている部分(もしくは意図的に見えなくさせられている部分)を啓蒙する迷いなき最強のパイオニアというわけではない。そこには数々の葛藤、過去に成してきた物事に対する終わりなき反省があるということは本書を少しでも読めば明らかだ。同書に掲載されている、2010年に写真美術館にて開催されたエイズをめぐる表象に関する展覧会「ラヴズ・ボディ 生と性を巡る表現」展の図録に添えられたテクストでは、エイズ陽性の当事者たちが作り遺した作品に対し、当事者でもなければ当事者と親しい間柄でもない自身がいかにしてそこに込められた種々の思いに向き合うべきかということの難しさに頭を悩ませながらも、それでも自分が作品の展示に責任を持つことに対する決意を述べている。

…(前略)…彼らの作品の重要性には論を待たない。けれども常に、作品の奥に秘められた深層には触れられていないのではないかとの思いが頭を擡(もた)げてくる。作品をとおして彼らの心情の一端に触れ共感することはできても、正直、彼らの経験は私の日常からはあまりに遠く、調べれば調べるほど、「当事者でないわたし」という後ろめたさがのしかかってくる。…(中略)…
 それでもわたしは彼らの作品を受け取ってしまったのである。受け取ってしまった者の責務として忘却への抵抗を続けること、このことだけが、わたしがこの展覧会を編むことの理由である。…(中略)…作品に対峙した人は、誰もが自分の問題として、それぞれの生に照らし合わせて、受け取った何かを問い続けなければならないだろう。そして誰もが不安感を強めている今のわたしたちの状況にとって、それはかけがえのないメッセージであると思う。(本書p.193-194、一部読み仮名は()内に記載する形で表す。)

見えないことが最も危険なのだ。見なかったことにするのが一番恐ろしいのだ。目に見えた、耳にしたのなら知らなかった頃には戻れない。そしてふと目にして焼きついてしまうほどの強いエネルギーを芸術作品は持っている。笠原美智子はそれらの力の大きさを自身の力と想像力を尽くして腕に抱きとめ、テクストを通してその重大さを別の誰かに語りかけ続ける。

書き手:上村麻里恵