作家:杉浦日向子 出版社:新潮社 出版年:2005年

「べらんめぇ」と威勢のよい喧嘩の声や、行商人の声が飛び交う、活気に溢れた江戸の町。天下の義賊・鼠小僧の活躍に沸き、海の向こうから珍しい動物が来たらしいと聞けば見物へ出かける。宵越しの金は持たないが、遊び心は忘れない。そんな自由気ままの江戸の暮らしに憧れたことはないだろうか。そういった気持ちを少しでも抱く人は、杉浦日向子の『一日江戸人』を手に取るべきである。
本書は1986年から1988年までの間に、雑誌「ビッグコミックオリジナル」(小学館)にて連載された全38回のコラムを単行本化したものだ。様々な江戸の風俗が、著者自身が手掛けるポップな挿絵と共に紹介されている。各コラムの内容は、義賊や大奥についてなど、現代人にとって少し馴染みのあるような話題から、春画や当時流行したまじないなどの、ややツウなものまで幅広い。たとえば、畳の隙間に詰まったゴミをおでこに付けると足の痺れが和らぐとされていただとか、勘右衛門という人が饅頭50個と羊羹7本を平らげた記録があるだとか、面白おかしい話が多数紹介されている。一見バカバカしく、事実親しみやすさは本書の魅力の一つだが、その面白おかしい話をかき集めるために著者が膨大な量の文献に触れていたことは想像に難くない。
著者の杉浦は、江戸風俗を研究する傍ら、漫画家、エッセイストとして活躍した人物だ。確かな時代考証のもと、江戸の生活風俗を取り上げた作品で人気を博した。日本橋の呉服屋の娘に生まれ、幼い頃から歌舞伎や寄席などに親しんで育った杉浦は、昭和の生まれながら江戸っ子の気質を濃く受け継いでいたようである。さっぱりとして男勝りな性格で、着物と蕎麦と昼下がりから呑む日本酒を愛した。若くして癌を患い46歳で世を去ったが、亡くなる直前に一人で南太平洋クルーズへ旅立つなど、最後まで明るく愉しく、自分の好きなことを貫き通した人だった。
そんな江戸っ子・杉浦が描き出す江戸の風俗は、まるでその場で見てきたかのように生き生きとしているのが魅力である。それがわかりやすく表れている箇所として、本書のなかの「美女列伝」というコラムを紹介したい。ここで杉浦は、江戸時代の美女の変遷について浮世絵を通して考察している。浮世絵に描かれた美人というと、細いつり目や独特の形をした唇が印象的で、実際の人間とは大きく異なる見た目をしている。ゆえに我々は、浮世絵美人画を見るとき、そこに生身の女性を想像するのではなく、「浮世絵に描かれた女性」という型として、その女性たちを見ることが多い。しかし、杉浦は違う。彼女は浮世絵に描かれた女性を通して、当時そこに生きていた生身の女性の姿をありありと思い浮べるのだ。たとえば、喜多川歌麿が描いた寛政三美人の特徴を杉浦に言わせれば、「おっとりした中にも、見つめる目を見つめかえすような一途さ」があり、「差し向かいで飲んだら、さぞや、お酒がうまかろうと思わせる」ところ。まるで見てきたかのように語り、読者の想像力を掻き立てる。
今の時代、せっかちで怒りっぽくて、でも人情に溢れた愛すべき江戸っ子はもうほとんどいないと言われている。しかし杉浦の言葉を通して、我々は江戸っ子の姿を鮮明に想像することができる。本書が存在する限り、江戸への憧れが失われることはないだろう。
書き手:伊東愛奈