開拓期から現代へレールつなぐ士別~名寄間 鉄道開業120年

名寄以北は日露戦争の影響で遅れる まずは浜頓別経由で稚内まで伸びる

1903年(明治36年)9月3日、北海道官設鉄道天塩線の士別~名寄間が開業。名寄駅の構内には名寄機関庫(後の名寄機関区)、名寄保線区、乗務員詰所なども設置され、「鉄道のまち」として歩み始めていたが、名寄以北への延伸は日露戦争の影響をはじめ、留萌本線の深川~留萌間(石狩沼田~留萌間は2023年4月1日廃止)の着工を優先したため、遅れていた。
その間、1905年(明治38年)4月1日に北海道官設鉄道は国有化され、逓信省鉄道作業局(08年12月5日から鉄道院、20年5月15日から鉄道省)の管轄となった。独立採算制の日本国有鉄道(国鉄、JNR)に移管されたのは49年(昭和24年)6月1日である。
地元では鉄道建設促進の請願書を衆議院、貴族院に提出し、09年(明治42年)9月になって名寄~稚内間の工事に着手することが決まった。09年9月に名寄~智恵文間、10年(明治43年)4月に智恵文~恩根内間で着工した。
11年(明治44年)11月3日、名寄~恩根内間が開業し、途中に智恵文、美深、紋穂内の各駅が開設された。名寄以北へ延伸するのに8年を要した。紋穂内駅は利用減少に伴い、2021年(令和3年)3月13日のダイヤ改正に合わせて廃止された。
智東駅は遅れて1924年(大正13年)6月1日に開設、国鉄分割民営化の87年(昭和62年)4月1日に臨時駅へ格下げされた。次第に無住地帯となり、利用客がほとんどいなかったため、2006年(平成18年)3月18日で廃止された。
日進、北星、智北、南美深、初野の各駅は戦後の開設となり、日進は1955年(昭和30年)12月1日、北星と南美深は56年(昭和31年)7月1日、智北は59年(昭和34年)11月1日、初野は48年(昭和23年)6月に仮乗降場として設置。59年11月1日に日進、北星、南美深、初野が駅へ昇格、87年4月1日に智北も駅へ昇格したが、北星と南美深は2021年(令和3年)3月13日のダイヤ改正で廃止された。
1912年(大正元年)9月21日に天塩線から宗谷線に改称された後、同年11月5日に恩根内~音威子府間が開業した。
音威子府以北への延伸は、幌延経由ルート(現行の宗谷本線)か浜頓別経由ルート(後の天北線)かで政争にもなった。
中川町史によると、幌延経由は天塩川があるため難工事の箇所が多かったのに対し、浜頓別経由は原野が広く拓殖計画の上でも有利であると判断し、先に浜頓別経由ルートが着工された。
しかし、実際には幌延経由の沿線に多くの御料小作人、単独移住民が住んでいた。一方、浜頓別経由の沿線には移住民が少なく、代議士や大会社の未開の牧場だけで、鉄道の必要性は幌延経由ルートにあり、既定線としてすでに決まっていた。
ところが、憲政会と政友会の争いがあり、佐々友房、安達謙蔵(憲政会代議士)らが浜頓別経由の沿線に広大な土地を持って地盤を築いていたため、安達らが鉄道を個人的利益に悪用して(我田引鉄)、急きょ浜頓別経由に変更され、11年5月に着工した。
14年(大正3年)11月7日、音威子府~小頓別間が開業。その後、16年(大正5年)10月1日に中頓別まで、18年(大正7年)8月25日に浜頓別まで、19年(大正8年)11月1日に浅茅野まで、20年(大正9年)11月1日に鬼志別まで、22年(大正11年)11月1日に稚内(現・南稚内)まで開業し、まずは浜頓別経由で稚内まで鉄道が伸びた。
その間、19年10月20日に宗谷線から宗谷本線に改称された。23年(大正12年)5月1日には稚内~樺太大泊(現在のロシア・サハリン州コルサコフ)間で稚泊連絡船が運航開始した。
名寄駅は稚内、樺太への経由地として重要な役割を果たすようになった。
(続く)