開拓期から現代へレールつなぐ士別~名寄間 鉄道開業120年

幌延経由でも稚内までつながる現行の宗谷本線のスタイルに近づく

まずは浜頓別経由で稚内まで到達した宗谷本線だが、幌延経由の沿線では着工を求めて陳情を続け、1916年(大正5年)から音威子府側で工事に着手した。
幌延経由は天塩線として、22年(大正11年)11月8日、音威子府~誉平(現・天塩中川、51年7月20日改称)間が開業。天塩川右岸の山すそに沿って工事が進められ、資材は天塩川の川舟で運搬された。今も当時の線形と変わらず、川沿いの区間であり、大雨時には運休となる難所である。23年(大正12年)11月10日に誉平~問寒別間が開業した。
稚内側からも着工し、天塩北線として24年(大正13年)6月25日、稚内(現・南稚内)~兜沼間が開業。同時に音威子府~問寒別間は天塩南線に改称され、25年(大正14年)7月20日に問寒別~幌延間が開業した。
26年(大正15年)9月25日、幌延~兜沼間が開業し、音威子府~稚内間が全線開業して天塩線と改称し、幌延経由でも稚内まで鉄道がつながった。
28年(昭和3年)12月26日、稚内(現・南稚内)~稚内港(現・稚内)間が開業した。
30年(昭和5年)4月1日、路線系統が改められ、旭川~音威子府~幌延~稚内港間が宗谷本線となり、音威子府~浜頓別~稚内間は北見線として分離し、幌延経由がメインルートとなった。
38年(昭和13年)10月1日、稚内港駅の構内に稚内桟橋駅(現在の稚内港北防波堤ドーム内)を開設し、稚泊連絡船(稚内~樺太大泊間)との乗り継ぎで便宜が図られた。稚内と大泊(現在のロシア・サハリン州コルサコフ)の所要時間は8時間だった。
39年(昭和14年)2月1日、稚内駅が南稚内駅、稚内港駅が稚内駅に改称された。南稚内駅は52年(昭和27年)11月6日に宗谷本線・北見線の分岐点寄りへ1km移転し、現行の宗谷本線に近いスタイルとなった。
45年(昭和20年)8月25日、稚泊連絡船が運航停止したことに伴い、稚内桟橋駅は廃止された。
戦後、こまめな停車が可能な気動車が導入されたことや、沿線住民の要望が寄せられたこともあり、各地に仮乗降場が開設され、後に駅へ昇格したところもあった。名寄駅をはじめ主要駅には大勢の利用客が集まった。旅客だけではなく、貨物や荷物も多く運び、鉄道は重要なインフラとなった。
現在までのルート変更は、65年(昭和40年)7月15日に上雄信内~雄信内間に下平トンネル(1356m)が開通した。同区間の旧ルートは天塩川の崖に沿っていたが、61年(昭和36年)1月26日に雪崩、62年(昭和37年)8月17日に土砂崩れ、同年9月30日には地滑りで下平陸橋を直撃し、損壊した。そのため、63年(昭和38年)9月からトンネル工事に着工した。
また、73年(昭和48年)9月29日に旭川~新旭川間が高架化、75年(昭和50年)11月に南稚内~稚内間の一部が高架化し、道路の混雑解消が図られた。
北見線は61年(昭和36年)4月1日、天北線に改称された。同年10月1日からは札幌~浜頓別~稚内間の急行「天北」が運行開始し、名寄や旭川、札幌などと直通し、都市間移動の利便性が向上した。沿線住民の足として担ってきたが、利用減少に伴い、85年(昭和60年)8月2日に廃止対象の第2次特定地方交通線として指定され、89年(平成元年)5月1日に廃止された。
次回からは名寄駅を中心として触れていく。
(続く)