下多寄経由だった当初計画 侯爵の政治力でルート変更か?
北海道官設鉄道天塩線(現・JR宗谷本線)士別~名寄間は、現行の国道40号にほぼ沿っているルートだが、当初の計画では、士別から天塩川の右岸に近く、下多寄(現・名寄市風連町瑞生)を経由して名寄に至るルートだったことが、1967年(昭和42年)4月発行の風連町史に記されている。
なぜ変更になったのかについて、下多寄の古老は2つの説を挙げていた。
一説は、1901年(明治31年)ごろ、鉄道測量隊の技師が鉄道予定線の下多寄の基線付近に立って四方を見渡したが、うっそうとした原始林で見通しが利かなかった。そこにあった巨木に登って辺りを眺めたところ「西の山が近くて、東の山が遠い」ことが分かった。基線は当時、仮定県道と称した基幹道路だったため、だいたい盆地の中央に建設されていたが、下多寄では地形上、西寄りになっていた。そのため、鉄道の位置は基線より東寄りの中央地帯に変更されたという。
もう一説は、風連の中央一帯に土地を持っていた「偉い人」の政治力で鉄道予定線がゆがめられたという。
当初計画のルートは、士別から天塩川を渡り、天塩川の右岸近くを経て、29線西2号付近から25線の基線を通り、18線東7号を経て名寄に入り、東8号(名寄市立総合病院裏通り)と東9号(名寄市西4条通り)の間を通り抜けていた。
駅の位置も異なり、多寄駅は34線西3号~西4号間の天塩川近く、風連駅は21線東4号~22線東3号間で、現在は田畑が広がっている。名寄駅は位置が定まらないが、現在の国道40号(西4条通り)西側の市街地に予定されていたという。
その鉄道予定線を変更させた「偉い人」といわれるのが、東京府東京市芝区に籍を持っていた大久保利和侯爵だった。
大久保侯爵は00年(明治33年)12月28日、北海道国有未開地処分法により、フーレベツ原野22線から27線まで、東3号から東7号まで(現在の名寄市風連町市街地を中心とする中央部一帯)を包含する115万3千坪(380万4900平方m)という大地積の貸し付けを受けた。
しかし、貸し付けを受けた狙いは、北海道庁が期待した開墾ではなく、中央に直結した政治力で、この土地に鉄道を敷設することによって地価(借地権)の高騰を狙うという、投機目的だったといわれる。
実際、買い手がつかなかったような土地も、鉄道が開業してからは高騰したという。
大久保侯爵は土地の貸し付けを受けてから、移住小作人の募集、開墾事務所や小作人住居の建設、道路開削など、開墾のために積極的に動いた形跡はなく、鉄道予定線が変更された01年(明治34年)12月17日に徳島県人の近藤増蔵氏に土地を譲渡した。その後、近藤氏が農場として開墾した。
もし大久保侯爵が登場していなかったら、風連や名寄の地図は変わっていたと思われる。鉄道の位置が現行とは違うため、まちづくりにも影響していたかもしれない。
(続く)
