開拓期から現代へレールつなぐ士別~名寄間 鉄道開業120年

まず永山まで開業 最初の難所は塩狩峠

1903年(明治36年)9月3日、北海道官設鉄道天塩線(現・JR宗谷本線)士別~名寄間が開業し、今年で120年を迎える。
開業当時の沿線は、道外の住民が移り住み、入植が始まったばかりの頃で、鉄道の開業によって開拓をさらに促進させた。
特に名寄は機関区が設置されるなど「鉄道のまち」として発展してきたが、後に機関区は廃止され、支線の名寄本線や深名線も姿を消すなど、鉄道全盛だった往時の面影は薄れてきている。
名寄を中心として開業以前から現在までを振り返ることにするが、まずは現行のJR宗谷本線の全線開業までを紹介したい。士別市史、風連町史、名寄市史などを参考図書とした。
 
士別~名寄間を含む旭川~稚内間の鉄道計画は、1896年(明治29年)5月14日公布の「北海道鉄道敷設法」で規定された6路線のうちの「石狩国旭川より北見国宗谷に至る鉄道」だった。
北海道官設鉄道天塩線として97年(明治30年)6月、旭川を起点として着工し、工事は旭川~蘭留間、蘭留~士別間、士別~名寄間の3工区に分けて進められた。
98年(明治31年)8月12日、旭川~永山間が開業。同年11月25日には永山~蘭留間が開業した。
その後は最初の難所として塩狩峠を越えることになるが、再三にわたる実測によって路線が検討されたため、トンネルの掘削を避けることができた。99年(明治32年)11月15日、蘭留~和寒間が開業した。
塩狩峠は現在でも勾配(最大勾配20‰)やカーブ(最小曲線半径195m)がきつく、現行のJR宗谷本線になってからも難所であり、列車のスピードは落ちる。
なお、塩狩駅は蘭留~和寒間の開業時にはなく、1916年(大正5年)9月5日に信号場として開設され、24年(大正13年)11月25日に駅へ昇格した。
1900年(明治33年)8月5日、和寒~士別間が開業。工事の従事者は遠方から周旋屋に連れて来られた人が多く、タコ部屋労働を強いられた。安い労賃と厳しい労働に耐えられず逃げ出した人もいた。
士別駅は35年(昭和10年)8月、66年(昭和41年)8月に改築され、現在の駅舎は3代目である。
36年(昭和11年)10月、明治製糖(現・日本甜菜製糖)士別工場が操業開始するとともに、専用線が運行開始。長きにわたって士別駅の貨物取り扱いを支えてきたが、トラック輸送に転換し、専用線が運行停止されたことに伴い、86年(昭和61年)11月1日に貨物取り扱いが廃止された。前年の85年(昭和60年)3月14日には荷物取り扱いも廃止されている。
士別~名寄間の工事は02年度(明治35年度)に入ってから着手し、路盤や橋梁、駅舎などの建設が進められた。
(続く)