毎週一冊おすすめ本をご紹介いたします BOOK LAB.
「わたしたちが孤児だったころ」
カズオ・イシグロ 著 入江 真佐子 訳(早川書房 2006年)
あなたは幼少期の過去のことをどれほど詳細に思い出せるだろうか。自分自身の記憶として詳細に思い出す人もいれば、親やおじおばからの又聞きで何となく、そんなこともあったかなと他人事のように感じる人もいるかもしれない。
この小説のあらましは、幼少期を上海で過ごした主人公クリストファー・バンクスが、ロンドンで育ち過去に失踪した両親の真相について迫るといったものだ。物語は時系列で大きく五つのパートに分けられ、一貫してクリストファーの一人称の視点から語られる。イギリス作家の作品らしく主人公は探偵であり、様々な事件を解決しているのだが、実はこの作品では推理には焦点が当てられていない。彼が高名な探偵だとは様々な描写から分かるものの、具体的な事件の内容や推理は全く語られないのだ。あくまで彼の内面と、彼の生きた時代とのコントラストが強く描かれる。
主人公クリストファーは、ロンドンに住み現在起こっている出来事を認識しつつ、折に触れては故郷のノスタルジックな思い出を懐古する。だが後半になるにつれそういった態度はなりを潜める。探偵として社会的悪の打倒と両親失踪の真相解明に心血を注ぐ彼は、1937年に故郷上海へと舞い戻る。クリストファーはそこで、幼い頃に素朴に信じていた絶対的で善なる世界が世界大戦の狭間に脆くも崩壊してしまったということを、まざまざと突きつけられることになる。
前半では、彼は知的かつ繊細に過去の思い出を追憶する。同時に、現在の自分が探偵としての名声を築き、社交界でも認められていることを自負している。そこには、主観的ながらも一貫している、世界への彼の眼差しがある。
だが果たしてその思い出は事実なのだろうか?追憶とはある意味、記憶の編集作業である。様々なことを思い出す中で、必ず人はその思い出を精査する。重要な思い出、思い出したが瑣末なこと、そもそも記憶の表層に浮かびさえしない出来事。ましてや彼は孤児である。突如親を失い孤児になるとは、「全世界が自分の目の前で崩れていくような気持ち」(46-47頁)なのだ。一度崩れた世界を取り戻すには、自分自身で組み上げるしかない。そうしてクリストファーは、探偵として理知的な眼差しでもって自身の過去や現在、あるいは社会全体を見つめる。
しかし一人の人間が自分自身のために組み上げた世界は、不条理で圧倒的な現実には耐えきれないのだ。探偵としての実績を上げ、ついに両親失踪の真実へと迫ろうと上海に戻った彼を待ち受けていたのは、第二次世界大戦直前の緊迫、すなわち中国軍と日本軍の戦闘である。あらゆる悪が蔓延り混沌と化した上海において、今やクリストファーの世界への眼差しは再び歪んでしまう。
淡々と紡がれる戦争への無力感、悲痛さ、陰鬱の気配は、クリストファーだけでなく我々読者をも襲い飲み込んでゆく。先立って静謐に描写されてきた彼の過去が、ノスタルジックな無邪気さに溢れているということが、より一層正義を失った世界の邪悪さを際立たせる。物語を読み切った後には、言葉を失うしかない。
タイトルやあらすじの印象に反して現実に起こった過去の戦争を扱う生々しさや、小説の前半と後半で全く異なる雰囲気を抱かせる点はおそらく賛否両論あるだろう。それは偏に、クリストファーの一人称で物語が進行するゆえに彼の混乱や勘違いが正されることがなく、そうして彼にとっての世界の見え方が陳述されるからである。カズオ・イシグロらしい淡々と整った表現でもって、美しくも残酷な世界がそこに立ち現れる。クリストファーの記憶を通して、世界の切なさを感じてみてはいかがだろうか。
書き手 小松貴海
こちらの書籍はBOOK.LABで販売中。ぜひお立ち寄りください。 (電話番号:011-374-1034 HP:BOOK LAB. powered by BASE)
道北の求人情報
名寄新聞を購読希望の方は