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「シナモンとガンパウダー」
イーライ・ブラウン 著 三角 和代 訳 (東京創元社 2022年)
誰しも人生で一度は、自由な冒険というものを想像したことがないだろうか。
冒険とは、危険な状況にあえて身を置くこと、リスクの中を己の意志で潜っていくことである。多くは自ら選んでその旅に出るが、今回紹介する小説の主人公は例外だ。
1819年の海を舞台に、世界を股にかけた大冒険。あるイギリス貴族のお抱え料理人であるウェッジウッドは、主人に連れ添って向かった先の別荘で海賊団に襲われてしまう。主人はその海賊団の女船長ハンナ・マボットに殺され、ウェッジウッドは海賊船に拉致されてしまう。あわや自身も殺されるかと思いきや、女船長マボットから「毎週日曜日、私のためだけの極上の料理をつくれ」と命令され生かされることになる。海賊船という料理設備の整っていない環境下で、自由になりたいと願いながらも料理をする彼は、マボットが追いかけているものとは何か、彼女が何をなそうとしているのか、その秘密に巻き込まれていく。
貴族を主人としていたウェッジウッドは敬虔なカトリック教徒であり、料理以外には何の趣味もなく善良で凡庸な人間だ。そんな彼とは真逆で苛烈な女海賊は、なぜ料理人を拉致したのか。本来交わるはずのない二人が繰り広げるこの物語は、イギリスの神学者の遺した名言「料理は芸術であり、かつ高尚な科学である」をまさに体現している。
拉致され孤立無縁のウェッジウッドが感じた恐怖、マボットに料理を振る舞う緊張感、意外と気の良い海賊連中に気を許し始めた彼自身の戸惑い。そういった主人公の心の機微が、彼の日誌を読むという形で我々読者に明らかにされる。いわばウェッジウッドの一人称視点であり、海賊船やそこに生きる人々、彼の見た景色が鮮明に描写され開示されていく。その丁寧な筆致ゆえに、料理人が海賊に拉致されるという突発な展開であっても、読者は彼に感情移入し、ドキドキハラハラの止まらない怒涛の展開に没入することができるだろう。
ウェッジウッドの視点では、女船長マボットは己の不幸を招いた元凶である一方、大海原に浮かんだ船の中で唯一命の保証をしてくれる庇護者でもある。インド洋の鮫、マッド・マボットなどと呼ばれる大悪党の彼女だが、ウェッジウッドの料理に舌鼓を打つ場面以降、少しずつ意外な面がいくつも垣間見えることになる。海を渡りその目で広い世界を見てきたマボットは、世に言われるほど粗暴ではない。ただの悪者であれば憎んでいられるのに、そうではない人間的な性格を知るにつれ、ウェッジウッドは葛藤するようになる。
こうした繊細な人間ドラマがこの作品の大きな魅力だが、『シナモンとガンパウダー』にある面白さはそれだけではない。海賊小説の醍醐味である史実性が、ご多分に洩れず盛り込まれている。もちろん純粋なエンタメ小説として読むこともできるが、イギリスという国のもつ歴史的背景を知っていればより興味深く読めることだろう。その背景とはイギリスの血生臭い歴史、私掠海賊と三角貿易だ。海賊の黄金時代は本作品の舞台である1800年代より少し遡る。イギリスによる中国へのアヘン密輸と、海賊たちの最盛期を過ぎてもまだしぶとく生き残る荒くれ者の物語を、上手く小説のパズルのピースとしてはめ込んでいる。冒険ものというとやはり子供向けという印象が強いが、この小説は大人が読んでこそ十全に楽しめる作品だ。
ウェッジウッドが、料理以外に世界を知らない状態から鮮烈の女船長マボットとの交流を経て、自身の生きてきた祖国の内情や世界の在り方に疑問を抱くようになるその過程にこそ、大人の冒険がある。読了後には、料理のような甘み、苦み、その他様々な感情が新鮮に、強烈に読者の心を駆け巡るだろう。
書き手 小松 貴海
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