「肉体の悪魔」
レーモン・ラディゲ著 中条省平訳(光文社古典新訳文庫 2008)
若き日の後悔が、大人になってもひっそり心の片隅に居残る。誰しも抱える、しかし誰にも打ち明けない経験ではないだろうか。
今回ご紹介する『肉体の悪魔』は、主人公である「僕」のそうしたかつての過ちへの内省から始まる。
第一次世界大戦下のフランスで、清淑で穏やかな両親のもとに生まれた僕は、学校では良くも悪くも真面目な生徒だった。そんな僕は15歳のある日、4歳年上の美しい人妻マルトと出会う。惹かれ合った二人は、僕の学友や学業、マルトの夫といったしがらみを超えて恋愛にふけるようになる。戦争という異常事態の中で、互いが互いの拠り所になっていた二人の禁断の関係はしかし、マルトの妊娠が発覚したことで次第に縺れ破滅に向かっていく。
若者の道ならぬ恋、ある意味ではありきたりな恋愛を描いたロマンス小説だ。フランスの古典的な恋愛小説の中では、著者が20歳という若さで早逝したこともありそれほど高い評価をされる作品ではない。むしろ処女作『肉体の悪魔』の後に執筆された『ドルジェル伯の舞踏会』の方が、より洗練され高度な文学的表現であるという点で好評を博した。しかし、『肉体の悪魔』の驚くべき点は、若き14歳のラディゲの実体験を元に、18歳の彼が硬質で冴え冴えとした筆致で描いた点である。
一般的に我々が自身の過去を振り返る時、思春期の頃の恋愛を青春として美化しないではいられないだろう。どうやっても多少なり鮮やかに記憶を脚色してしまうのではないか。それも18歳ならなおさら、肉欲に流され冷静でいることに困難が伴う。第一次大戦という歴史に類を見ない異常な情勢、混乱でモラルが崩壊した世界。その最中に投げ込まれたことを自覚しながらも、不倫への罪の意識をうやむやにせず正視する姿勢が、ラディゲの透徹した表現や世界観を生み出している。若干15歳と19歳の男女の不倫というスキャンダラスな関係、それを容易に引き起こした戦争の重苦しい狂気を前にして、子どもは純粋無垢な存在であるという楽観的で盲従的な無意識の前提が、ここで疑問に付されているのである。
人が人を殺す狂気の中でも懸命に生き抜いた人々のお涙頂戴的なストーリーではなく、どうしようもない状況であったとしてもやはりそこには公序良俗の蹂躙を犯した事実があることを、年端もいかない少年が訴えかけている。青春の刹那のきらめきと真っ暗な運命の強烈なコントラストは、ラディゲにしか描けないものだ。
ところで、『肉体の悪魔』は文学的にそれほど高い評価をされていないと先述したが、それは彼が遺した作品が2作のみでありその実力を精確に評価することが難しいという背景が一因にあるためだ。戦後の日本文学では、ラディゲの精緻で冷徹な心理描写が高く評価され、様々な文学家に影響を与えた。堀辰雄『聖家族』や三島由紀夫『美徳のよろめき』などに代表される。特に『美徳のよろめき』は「よろめき」ブームなる社会現象を巻き起こし、絶大な反響を呼んだ。この書評を読んている方の中にも、三島由紀夫は知っているがラディゲは知らなかったという方はいるだろう。
約100年程前、比較的最近の古典文学として分類される本書だが、その時代背景の特殊さに反して読者の青春体験や心情に重なる部分があるのも今なお読み継がれる理由のひとつだ。ぜひフランス文学の骨頂を体感していただきたい。
書き手:小松貴海
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