ロシア語だけの青春

著者:黒田龍之助 出版社:筑摩書房(単行本は現代書館より) 出版年:2023年(単行本は2018年)

黒田龍之介はラジオ外国語講座やテレビの語学講座、大学において長年ロシア語を中心に講師を務めた人物であり、ロシア語だけでなくウクライナ語やベラルーシ語等のいわゆるスラヴ圏の言語に関する語学書を数多く手掛けている。彼の言語への並々ならぬ関心を支え、後押しし、彼を1人の言語学者そして教育者へと導いたのが東京・代々木にて2013年まで開校していた「ミール・ロシア語研究所」(通称「ミール」)だ。本書はまだ高校生だった黒田がミールへと足を踏み入れ、ミール中心の日々を通してロシア語と触れ続けた濃密な記録である。

 本書の醍醐味は何と言ってもミールの教室や授業、同窓との記憶だ。黒田氏の通ったミールにおいてロシア語学習とはもっぱら文を口に出すことである。日本語にはない口の動かし方やアクセントに苦戦しながらも、次第にコースをステップアップさせ通訳といった実践の場、そして講師という教える側へと歩を進めていく。その回想には同時に、大学院への進学や就職、何にも代え難い同窓との出会いや別れ、そしてソ連の解体のような世界史レベルでの物事の変化が並走している。黒田氏が歩んできた変遷と歴史を巨視的にみた時の変化が互いに食い合うことのない距離感で同居し、双方を混乱させることない氏の丁寧な語りによって本書は時の流れの重厚さは残しながらも、かつ次の語りを聞きたくなるような滑らかさを感じる。

 その語りの中で読み手は時代の流れを実感するだけでなく、「辞めないこと」、「続けること」の熱意を静かに、しかし確かに感じ取ることだろう。黒田氏はおよそ10年毎週2日ロシア語のレッスンを受け続け、優秀な同窓たちが去っていくのを見送る立場となり、大学院に通う中でもミールを学舎、そして教える場として可能な限り選びつづけた。本書のエピローグの章題は「他のやり方は知らない」である。その言葉には1つのやり方を信じて突き進み、決してその歩みを止めなかった者だけが持ちうる揺るぎない自信と誇りがある。まさにロシア語を中心にした生活で、言語をものにすることの難しさはもちろんあるが、何よりもやりたいことに一心に励む若き日の黒田氏の様子や「ロシア語に明け暮れる」という言葉がぴったりな濃密な日々には読み手が思わず眩しさや熱を感じるほどの信念がある。その熱意の軌跡は何かをやり遂げようとする中で迷いを感じ立ち止まろうとする人の背中をそっと、しかし確かに後押してくれるものになるだろう。

書き手:上村麻里恵

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