廃止から35年 名寄本線

内陸とオホーツクを結ぶ 着工から4年で全線開業

名寄駅から興部駅、中湧別駅を経て、遠軽駅までを結んだJR名寄本線が1989年(平成元年)5月1日に廃止され、今年で35年を迎える。
21年(大正10年)10月5日の全線開業以来、多くの旅客と貨物を運んできたが、沿線の過疎化に伴う利用客減少、自動車社会の到来が大きく影響し、廃止の運命をたどった。
今でも鉄路の跡形が残るところもあり、沿革を振り返りながら現在の姿を紹介する。国鉄旭川鉄道管理局発行「旭川・鉄道八十八年の歩み」、北海民友新聞社編集・名寄本線代替バス運営協議会発行「名寄本線」、名寄市発行「新名寄市史」、名寄新聞などを参考とした。

名寄本線は当初、「名寄線」として名寄から下川を経て、天塩・北見の国境(天北峠)を越え、オホーツク海沿岸の興部に出て、中湧別までの延長121.9kmの鉄道として建設された。
これは、1896年(明治29年)5月14日公布の「北海道鉄道敷設法」で「天塩国奈与呂(名寄)ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道」として計画された路線の一部であり、内陸部とオホーツク沿岸を結ぶ重要な鉄道で、将来は石狩、天塩、北見、釧路、十勝の5カ国を経済的につなぐ役割を担うものとみられた。
建設工事は、全線を上区(名寄~上興部間)、下区(上興部~中湧別間)に分け、名寄と中湧別の双方から上興部に向けて着工し、名寄からは1917年(大正6年)12月10日、中湧別からは同年9月16日に起工した。
上区は名寄~下川間が19年(大正8年)10月20日、下川~上興部間が20年(大正9年)10月25日に開業し、「名寄西線」と称した。
一方、下区は中湧別~興部間が21年(大正10年)3月25日、「名寄東線」として開業した。残る上興部~興部間は同年10月5日に開業し、着工から4年で全線開業となり、名寄西線と名寄東線を統合して「名寄線」となった。
遠軽~中湧別~湧別間については、15年(大正4年)11月1日に「湧別軽便線」として遠軽~社名淵(34年2月5日に「開盛」と改称)間が開業。16年(大正5年)11月21日に社名淵~中湧別~下湧別(54年11月10日に「湧別」と改称)間が開業した。
軽便線とはレールの軌間が762mmで、国鉄やJR在来線の1067mm(狭軌)とは異なる規格だが、「湧別軽便線」は下湧別延伸の際に1067mmに改軌され、22年(大正11年)9月2日に「軽便鉄道法」が廃止されたため「湧別線」と改称された。
これまで道央とオホーツク海方面を結ぶルートは、滝川から根室本線に入り、池田から網走本線(61年4月1日に池田~北見間が池北線、北見~網走間が石北本線に分割)で北見、網走に向かっていたが、名寄線が全線開業すると、名寄、中湧別経由が最短ルートの幹線となった。旅客も貨物も名寄線に流れ込むようになり、名寄は中継駅として、にぎわうようになった。
名寄線は23年(大正12年)11月5日、「名寄本線」と改称された。渚滑から分岐して北見滝ノ上に至る渚滑線(85年4月1日廃止)の開業に伴うもので、この時点で初めて支線を持った。
32年(昭和7年)10月1日、湧別線の遠軽~下湧別間を名寄本線に編入し、名寄本線は名寄~遠軽間と支線の中湧別~下湧別間となり、全延長は143km(名寄~遠軽間138.1km、中湧別~下湧別間4.9km)となった。
沿線人口が増え、農林業や漁業などの産業も活発化したが、32年10月1日に新旭川~北見間の石北線(61年4月1日、石北本線と改称)が全線開業したため、道央、旭川から北見、網走方面への輸送は奪われるようになり、名寄本線はローカル線として歩むことになった。
(続く)