デリダ 脱構築と正義

著者:高橋哲哉 出版年:2015年 出版社:講談社

すごく、難しい時代になってしまったと思う。
情報過多のSNS時代、様々な人の意見が世に溢れるようになった.誹謗中傷が飛び交う中で燦然と輝く、「言語化」という言葉。ご覧の方もよく見聞きする言葉だと思う。
世間では「推し活」が社会現象として起こり続け、ファンがSNSに感想を書く。上手な感想、つまり言語化のうまい感想を発信するアカウントは持て囃され、ファンの中でも一目置かれる存在になることもある。「好き」、「やばい」という常套句で表現するだけでは満足できなくなり、「語彙力」を求め、様々な感想を見て、言語化能力を磨くファンも多い。またそういった世相を読んでか、今を時めく書評家、三宅香帆氏による『「好き」を言語化する技術』という本まで出版され、25万部を突破したという。それだけでなく、各テレビ番組、各Youtubeチャンネル、各Podcast、様々なコンテンツや現象、さらに感情を言語化するコンテンツが隆盛を極めている。まさに「言語化時代」とも言える。
そんな時代を見て、なんとなく、窮屈さを覚えた。好きなアイドルやコンテンツ、つまり自分の心を震わせる何かに触れたとき、「好き」、「やばい」という常套句を述べることは悪なのだろうか。果たして、その感情を客観的に理解できるような一般的な言葉で説明することこそが善なのだろうか。
というか、好きなものを見て、誰かに伝わるように言葉にする必要など、本当にあるのだろうか。
そんなことを考えながら手に取ったのが本書、『デリダ』である。現代フランス思想の代表格の一人、哲学者ジャック・デリダについての入門書である。デリダといえば、「脱構築」というキーワードが有名である。脱構築という言葉を説明するのは非常に難しく、というか初学者の私にはそんなことできないが、あえて言うならば、世の中に存在している「意味」そのものとは、想定しているよりも不安定で、完全に信頼できるものでない、という思想を抱いた人だ。は?と思うのも仕方がなく、デリダといえば難解、または背伸びしがちな大学生時代に手に取り、あえなく挫折する、というイメージを抱く方も多い。またそのイメージは間違っていない。むしろ真理を追い求める学問である哲学において、デリダの態度は「まぁ、結局なんにもわかんないってことっすね……」と捨て台詞を吐いた人と誤解されることも多く、今もそのイメージは根強いように思える。
ただデリダはそこから踏み込む。彼は「決定不可能性」という言葉、そしてエクリチュールという概念について深く考える。エクリチュールとはざっくり、文章や文字、つまり「言語化」されたものと捉えてそこまで問題ない。デリダは一見,信頼性の高そうなエクリチュールにも、決定不可能性、つまり、「ある対象を完璧に言語化することの不可能性」を述べた。あなたの目の前に、美しい何かがあったとしよう。あなたがその何かを「美しい」と形容したとき、その美しさは本当に他の誰かに伝わるものだろうか。その何かがどのように光り、どのような滑らかさで、ということを表現しても良い。けれど確実にその表現からこぼれ落ちてしまうものがある。ある対象を完璧に言語化するということは、絶対的に不可能なのだ。デリダはこの、対象を言語化することを「暴力」とさえ称する。そしてエクリチュールを用いるうえで、その暴力は絶対に避けられるものではないと述べるのだ。
ただしデリダはその不可能性を指摘しながら、それでもなお決定することの重要性を説く。「決定不可能性における決定」である。
私はその箇所を読んで、大袈裟だけれど、少し許された気持ちになった。言語化の重要性が叫ばれる世間において、完璧な言語化は存在しない。それでも何かを伝えなければならない時がある。それは推しに対する愛情かもしれないし、就職活動中の自己PRかもしれない。肉親への感謝かもしれないし、良質な哲学の入門書に対する、拙さが目に余る書評かもしれない。けれどその中で決定し続ける必要があると、自分の中に落とし込むことができたからだ。
もちろん言語化も「やばい」という表現も、ともに絶対的な善でも悪でもない。実は善と悪という二項対立は脱構築にて解消されるべき対象である。とにかく、はっきり区別できるほど、そんなシンプルなものではない。そしてそれは世界に対しても、同様である。今まで気にかけていなかった世界の複雑さと向き合いながら、落としどころを見つけ、決定することへの暴力性を認め、管理しながら、うまくやっていかなければならないのだと思う。
すごく、難しい時代になったと思う。けれどそれは、人間がようやく世界の容貌を理解し始めたからかもしれない。
最後に、デリダの哲学はフッサールの現象学、フロイトの精神分析、ハイデガーの存在論を土台にしながらそれらを乗り越えるために作り上げられた哲学である。それだけでなくプラトンやレヴィ=ストロース、レヴィナスなど、膨大な哲学テクストへの丹念な読解により成り立つものであり、私のような、本書を一冊読んだだけで到底理解できるようなものではない。本文はあくまで私の感想文程度、そして私なりの「決定不可能性における決定」であったとして、お茶を濁すとする。

書き手:高橋龍二

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