今回、下川町出身の山口正子さんが、馬を題材に書いたエッセーの一部を紹介する。山口さんは1948年、下川町中成生まれ。高校卒業後上京し、医療に従事。定年退職後に古里下川への思いを書き残したいと、エッセー教室へ通う。東京都八王子市在住。
寄稿エッセー
「うま」(前編)
山口正子さん
第1章
3年前、北海道の実家に帰ったとき、日高町にサラブレッドを見に行った。青インクを振り撒いたような紺碧の空。日本であることを疑う広大な牧草地。強烈な太陽が緑と青のコントラストを、鮮やかに映し出す。遠くで草を食む馬の姿が小さく見える。
私は車から降りると遠方の馬たちに向かい両手をあげ左右に大きく振り「おお~い!」と叫んでみた。何回か叫ぶと草を食んでいた一頭が、頭を持ち上げこちらを見た。そして我々に向かって歩きだしたではないか!
知人は、すごいわね、まるで調教師みたい、とひやかした。すぐに他の馬も先頭に続き、柵の外にいる私たちのもとへ歩いてきた。
今まで草を食んでいたせいか鼻の所に土が付着している。私たちは馬たちを見あげた。長い顔に大きな瞳、両耳をピンとたて優しげな眼差しで私を見下ろしている。私は手を出し馬の顔をなでた。馬づらというだけあってなでがいがあるわねぇ、と知人と笑い合った。
近寄ってきてくれたのだから何か食べ物を、と周囲を見渡した。柵の外には太陽に栄養剤をたっぷりとふりかけられて成長した柔らかい草が生えている。それを手でちぎり一頭の馬に与えようと思ったが、馬の大きな歯で咬まれるのでは、と一瞬怖くなり、放り投げる格好になった。私の仕草に馬は驚いて身を引いたものだから、私も同時にびくっとした。馬は臆病な動物だと実感した。
途中一泊したホテルで、競馬場の馬が深夜に厩舎を逃げ出し、道路に出て軽自動車にひかれ、運転していた人も馬も死んだという、ニュースが流れた。
馬は10mも飛ばされ即死。怯える原因があって、目をむき、前脚をあげ、いななきながら疾走したのだろう。馬の胸中を想い心が痛んだ…。
第2章
私が子どもの頃、昭和30年代、農家のどの家にも数頭の馬がいた。サラブレットのようにスマートな馬ではなく脚の太い農耕馬である。馬は家族の一員だった。車の無い時代に土地の開拓に伴う畑起こし、水田の代かき、除草などの野良仕事。夏は馬車、冬は馬そりで町への農作物の運搬、買い物。嫁入り運び、葬儀の棺桶運びなど、それは農家の重大な働き手であった。
母屋の隣が厩舎で、馬は昼間畑仕事をして、夜には厩舎に帰ってくる。馬の鼻を鳴らす音、草を食べる音、歩きまわる音。子どもながらに馬のいる気配に安心感を覚えた。
学校の帰り道、重い荷をひいた兄専用の馬アオが足を踏ん張り、頭を高くもちあげていた。私は「アオがんばれ!」と声をあげた。苦しかったのであろう、目をむいていた姿を思い出す。馬を操る兄も必死で臀部を鞭打ち、人馬一体の呼吸であった。
馬の臀部は鞭打たれても、痛い感覚はないというが、音には敏感。臆病な性格なので、自分の体に鞭打たれる音に怯え動くという。
冬になると雪で畑仕事は出来ない。山に入り伐木を駅まで運び出す仕事をした。時に危険が伴う。
ある時、山を滑り落ちてきた材木が、アオの脚に当り骨折した。脚の怪我は馬にとって致命傷。非情にもそういう馬は安楽死させられる。
兄は馬たちを大事にあつかっていた。相棒のアオに話しかけながらブラッシングをほどこし、厩舎の床にはふかふかの藁を入れ、いつも清潔にした。そのアオが殺処分場に連れていかれる時、兄の姿を求めて振り返り何度も鳴いた。兄は最も信頼する相棒、アオを失い「もっと気を付けていれば」と自分を責めた。
その後、実家は開墾で土地を広げ乳牛を導入、酪農を始めた。時代の変遷とともに機械化が進み農耕馬は姿を消した。馬は北の大地の偉大な開拓者だった。
脚の細長い、今のサラブレットたちを見ていると、大地にへばりつくように働き、姿を消した北海道の農耕馬へと想いがいく。
<名寄新聞の2020年7月5日・6日付掲載記事を基に再構成しました>
結婚の日は馬で嫁ぎ先に
―さらに名寄市在住の鎌田ミスエさんから、いただいた「馬の思い出」を紹介します。
以下、鎌田さんの思い出です。
昭和初期の話です。私(鎌田さん)は、名寄・ピヤシリの付近で暮らしていました。今のサンピラーやスキー場辺りでは冬になると、何十頭の馬が丸太をバチで運ぶところが見られました。
8人兄弟の長女だったので、馬にプラオを引かせて畑を起こすなど働いていました。トウキビ、イモの土寄せも馬でやっていました。
正月の2日は買い初めの日。丸通に勤めている人たちが、ねじりはちまきに、はんてんを着て、化粧した馬に引かせたそりに乗って目抜き通りを歩き、祭り騒ぎのようでした。
馬そりには枠を作って鈴を付け、ヤナギ、カボチャ、太鼓を叩いて大声で笑い、馬を小走りに走らせていました。「やれ、やれ、ヤナギに、カボチャに、ドジョウにそれ」と駆け巡っていたものです。
終戦直後、今の乗用車が馬、遠くへ行くときは汽車で、昭和30年代も買い物や病院など町へ行く手段のほとんどは馬、馬そりでした。
私の結婚の日はバチに幌を掛けて、馬に引かせて嫁ぎ先まで行きましたが、その2年後、弟はバスでお嫁に来てもらったそうです。
―以上、鎌田さんの思い出でした。手書きによる心温まる寄稿に感謝申し上げます。
<2016年2月8日付名寄新聞掲載の記事を基に再構成しました>