製紙工場の大煙突と 名寄土管レンガ煙突
かつては、住宅から暖房用の煙突が突き出しているのはあたりまえの光景でした。平成期にエネルギー源の切り替わりが進んだり、FF式の暖房器具が普及したりした事などによって、屋根から突き出すタイプの煙突、いわゆる集合煙突はその数を減らしているように思います。
遠くから見通せる高く大きな煙突は風呂屋、酒造所そのほか、石炭や木炭を燃料にしていた事業所に必ずあり、学校にはごみを燃やすための焼却炉の煙突がありました。これらも産業の盛衰や社会情勢の変化に伴い、平成期に姿を消していっています。
平成の名寄を象徴する煙突といえば、製紙工場の大煙突でしょう。冷え込む朝晩に、もうもうと白煙をあげる大煙突は、名寄の産業の活力の象徴でした。高さは40~50mほどあり、市街のあちこちから見ることができました。それらも、王子マテリア名寄工場の操業停止に伴い、令和3年までに白煙があがらなくなり、煙突そのものも令和5年までにすべて解体されました。
大煙突は通算して5本建造されました。時代によって建っている数が違うのです。昭和35年、王子マテリア名寄工場は天塩川製紙名寄工場としてスタートしました。すぐにボイラーの排煙用に1本目の煙突が建てられ、昭和41年には設備増強に伴って2本目が追加されました。1本目の煙突には「天塩川製紙名寄工場」の文字が入っていたとお伝えすれば思い出される方もいらっしゃると思います。2本目の煙突はその後(昭和45年ころ)にステンレス管で延長され、独特の形をしており、記憶されている方もいらっしゃるかもしれません。3本目は昭和50年に1、2本目の後継として建てられ、スクラバー(除害装置)がつけられました(ジャングルジムのような構造物が特徴)。
そのほか、工場には回収(黒液燃焼)ボイラーの煙突があり、昭和46年に初代、昭和48年に2代目が建てられています。2代目にはスクラバーが備えられており、外観は「3本目の煙突」に似ていました。
建造と供用、利用停止と解体時期の都合上、工場の煙突は1本だった時期から5本あった時期に区分され、写真やスケッチに描かれた煙突の本数や煙が出ているかどうかで、おおよその時期を推定できます。詳しくは、王子マテリア名寄事業所の柴田学氏から提供いただいた「工場煙突の変遷」表をご覧いただきたいと思います。
ちなみに私は平成27年から名寄に住みはじめましたので、2本の時期しか知りません!
そのほか象徴的な煙突として、名寄土管製作所のレンガ煙突がありました。これは昭和10年代に建てられた、土管焼成用の窯の煙突で20m以上の高さがある立派なものでした。最盛期に6本、平成の初めには2本が残っており、うち1本を補強して平成12年から29年までの間、クリスマスシーズンにサンタクロースの人形を設置する試みをし、洒落のきいた風物詩として、市民に愛されました。宗谷本線の車窓からも見ることができました。
これは有志組織、土・洒落遊(ドゥ・シャレイユ)が名寄市開拓100年の協賛事業として始めた試みで、クリスマスが近づくにつれ、ライトアップされたサンタクロースが少しづつ高い位置に登っていく様子を楽しみにしていた方はたくさんいらっしゃると思います。残念ながら、このレンガ煙突も老朽化が進んだため平成30年5月に解体されました。
サンタクロースはその後どこへ?煙突を登る姿こそ見られなくなりましたが、冬になると、ピヤシリスキー場や、福祉センター、よろーな屋上などを登る姿を目撃したという情報があります。現在は中富良野方面で活躍しているそうです。
さて、今回も市民の皆様にお願いです。平成期の「煙突」について、思い出をぜひ教えていただきたいのです。資料については、王子マテリア名寄工場と名寄土管の煙突については、北国博物館と市史編さん室はある程度保有しています。そのほかの煙突についてはほとんど保有しておりません。思い出などの歴史を語る「生の声」を保存したり、市史の記載に反映させたいと考えますのでよろしくお願いします。
(竹田)
当連載は、市史編さん室職員の担当者が回ごと交代で執筆します。問い合わせ先:名寄市総務部市史編さん室(電話01654③2585直通)
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