パチンコ店の盛衰
私は嗜まないのですが、休日に銀球を追うのを趣味とされる方は市役所にたくさんいらっしゃるように思います。
「パチンコ」は昭和初めころに日本で生まれた遊戯とされ、戦中禁止されましたが、戦後に復活し、昭和の期間を通して主要な大衆娯楽のひとつでありつづけました。平成7年ころをピークに、遊戯人口や市場規模は縮小を続けているとされており、ほかの様々な娯楽との競合や、種々の規制強化、遊戯費用の上昇などの影響といわれますが、今なお、娯楽として一定の地位を占めています。
名寄のパチンコ店の始まりは、昭和25年開店のオリムピックホール(西1南7)とされ、以降、予備隊キャンプ(現名寄駐屯地)建設現場付近に、建設労働者目当ての店舗が設けられたとか、智恵文地区、風連地区にも店舗があったという記録が残っています。
当時は、電動ではなく手動で球をはじく形式が主流で、当たりも、釘などを用いた物理的な制御だったそうです。スマートボールのような形式の台も多くみられたようです。
電動式ハンドルの導入(昭和48年)、回胴式機種の誕生(いわゆるスロットマシン、昭和40年)、液晶画面の搭載(平成元年)など機材が改良され、制御も電子的なものへと切り替わっていきました。それにともない、導入・更新費用が高騰し、事業者は資本や規模の拡大を余儀なくされていったようです。
初期には、ほとんどの店舗が市街中心部にあり、台は店舗あたり数十台程度。地元資本の小型店が多数を占めていたとみられます。徐々に大型店舗化し、名寄では昭和終わりころから平成の初めにかけて、郊外に大型駐車場を備えた大型店が相次いで開店し、市街地の小型店と入れ替わっていきました。国道40号線沿いにあった「パラダイス40」、「ビッグスカイ」、「ジャパン」などがそれにあたります。
平成10年ころからは、さらに郊外、徳田の商業施設付近に、札幌・東京といった市外に拠点を置く大型資本により、さらに大型の駐車場を備えた超大型店舗がオープンし、既存店と入れ替わっていきました。「イーグル」、「マルハン」、「ダイナム」などがそれにあたります。
その後、市場の縮小と競合の中、徐々に店舗数を減らし、令和6年4月現在では徳田地区に、東京に本社を置く超大型2店のみが営業しているという状況です。
これらも、平成期の地域における産業構造変化の一端を示すものとして、新たな市史に記述していく予定です。
そこで、市民の皆様にお願いです。
北国博物館、市史編さん室は「名寄地域のパチンコ」にかかわる資料(各店舗の写真など)を、ほとんど保有していません。当時は資料的価値が、さほど重視されなかったからだと推定しますが、商業施設が市街地から郊外へ、地元資本から外部資本の大型店舗へと遷移していった様相は、平成の名寄を記録するうえで一定重要であることは疑いありません。
おもしろいところでは、平成10年ころに「敬老パチンコ」(高齢者の健全な娯楽として、景品の交換がない代わりに球が使い放題)というイベントが行われたという記録も残っています。そのような、平成期の名寄のパチンコについて、当時の様子がわかる資料をお持ちの方がいらっしいましたら、ぜひ、市史編さん室までご連絡をお願いします。 (竹田)
当連載は、市史編さん室職員の担当者が回ごと交代で執筆します。
問い合わせ先:名寄市総務部市史編さん室(電話01654③2585 直通)