幹線からローカル線になったが…各地では「鉄道のまち」として発展
1921年(大正10年)10月5日に名寄線(名寄~中湧別間)が全線開業し、32年(昭和7年)10月1日には湧別線(遠軽~湧別間)を編入し、名寄本線(名寄~遠軽間、中湧別~湧別間)となったが、同時に石北線(新旭川~北見間)が全線開業したため、道央とオホーツク方面を結ぶ幹線から一転してローカル線に甘んじることになった。
そういった状況ではあったが、当時は沿線人口が増え、農林業や漁業などの産業も盛んだったことから、名寄本線は上川地方北部やオホーツク海沿岸地域の旅客や貨物輸送で大きな役割を果たすようになった。
上興部駅には、名寄線全線開業直前の21年10月1日、名寄機関庫上興部分庫が設置された。29年(昭和4年)11月14日に上興部駐泊所、41年(昭和16年)10月1日に給水所と規模は縮小されたが、SL(蒸気機関車)の運転で大きな役割を果たし、SL全廃後の75年(昭和50年)11月に給水所が撤去された。上興部は名寄方面へ向かう際、天北峠越えを控える位置にある。また、35年(昭和10年)4月に上興部石灰鉱業所の操業開始に伴い、専用線が運用開始された。82年(昭和57年)11月15日の貨物取り扱い廃止と同時に専用線も廃止され、後に同鉱業所も閉鎖された。
35年9月15日に興部から分岐して雄武に至る興浜南線(85年7月15日廃止)、同年10月20日には中湧別から分岐して計呂地に至る湧網西線(53年10月22日、中湧別~網走間が全通し「湧網線」に改称、87年3月20日廃止)が開業し、23年(大正12年)11月5日に開業した渚滑から分岐して北見滝ノ上に至る渚滑線(85年4月1日廃止)と合わせて、名寄本線周辺の鉄道網が充実した。特に名寄、興部、渚滑(紋別)、中湧別、遠軽は「鉄道のまち」として輸送の拠点となり、発展した。
渚滑駅には、渚滑線開業と同時に渚滑機関庫が設置された。32年10月1日に遠軽機関庫渚滑分庫、36年(昭和11年)9月1日には職制改正に伴って遠軽機関区渚滑支区となり、60年(昭和35年)5月1日に廃止されたが、車庫は残され、車両の停泊に利用された。名寄本線廃止後も車庫は残り、冬期間は「旧渚滑駅機関庫跡室内パークゴルフ場」として開放されている。
また、下川駅からは珊瑠森林鉄道(36年竣工)と中名寄森林鉄道(42年竣工)が分岐、一ノ橋駅からは奥名寄森林鉄道(30年竣工)と然別森林鉄道(35年竣工)が分岐し、原木を運送していたが、後にトラック輸送に切り替えられたため、59年(昭和34年)までに廃止された。
戦時中を経て、戦後はSLに代わって気動車が運転を開始するとともに、無人駅や仮乗降場が郊外に開設された。さらに速達列車も登場し、都市間の所要時間が短縮され、利便性が向上した。
(続く)