廃止から35年 名寄本線

気動車が運転開始、郊外に無人駅も 速達列車も登場し、所要時間が短縮

名寄本線では興浜南線(興部~雄武間)、渚滑線(渚滑~北見滝ノ上間)、湧網線(中湧別~遠軽間)の支線も開業し、分岐駅では「鉄道のまち」として発展した。
戦後は、旅客列車がSLけん引に代わり、自動車用のディーゼルエンジンを転用して製造したレールバス(小型気動車)が、名寄本線では1955年(昭和30年)12月25日から運転を開始した。これにより、名寄~遠軽間の所要時間は従来の客車・貨車混合編成で7時間を要していたが、レールバスは半分の時間に短縮された。
ただ、レールバスは定員46人という小型で、朝夕の通勤・通学時間帯は乗車率100%を超える大混雑となったため、56年(昭和31年)11月から定員がほぼ2倍の大型気動車を導入した。当初は2往復だったが、57年(昭和32年)2月には7往復に増発された。
また、気動車はこまめに停車できることから、無人駅や仮乗降場が郊外に相次いで開設され、沿線住民の利便性が向上した。
客貨分離も進み、57年1月27日に全ての旅客列車で客貨分離を達成し、SLけん引は貨物列車のみとなった。75年(昭和50年)5月6日に名寄~上興部間で「SL三重連さよなら列車」を運転し、SLは姿を消した。
62年(昭和37年)5月1日ダイヤ改正では速達列車が登場し、遠軽から紋別、名寄、旭川を経て、札幌に至る急行「紋別」。旭川から遠軽、紋別、名寄を経て、旭川で循環する準急「旭川」。興部から遠軽、北見を経て、網走に至る準急「天都」が運行開始。都市間の所要時間が短縮され、さらなる利便性向上が図られた。 
66年(昭和41年)3月5日に営業距離100km以上の準急列車は急行列車に格上げされたため、100km以上ある「旭川」「天都」も急行となったが、68年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正で循環運行の「旭川」は廃止された。
「旭川」の代替として旭川から遠軽、興部を経て、名寄に至る急行「オホーツク」が運行開始されたが、遠軽~名寄間は普通列車として運行した。72年(昭和47年)10月2日ダイヤ改正で「大雪」に改称され、下りは旭川~遠軽~興部間、上りは名寄~遠軽~旭川間の運行となった(名寄本線内は普通列車として運行)。
旅客、貨物とも輸送は最盛期を迎えていたが、70年代に入ると沿線の過疎化や自動車社会の到来が影響し、利用は減少の一途をたどった。「営業近代化」と称する合理化が始まり、駅の無人化、貨物や荷物の取り扱いが廃止された。国鉄の赤字や負債が問題とされ、国鉄再建法が公布され、名寄本線は廃止対象の特定地方交通線に選定された。
(続く)