廃止から35年 名寄本線

廃止対象路線に選定される 沿線過疎化、自動車社会到来が影響

他駅より早く無人化された中名寄駅。待合室が残っている

こまめに停車できる気動車が導入されるとともに、郊外には無人駅や仮乗降場が開設された。また、急行や準急列車も運行を開始し、所要時間が短縮され、利便性が向上した。
旅客、貨物とも輸送は最盛期を迎えていたところだが、1970年代に入ると沿線の過疎化とともに、自動車社会の到来が影響し、利用は減少の一途をたどった。74年(昭和49年)10月1日には中興部、沼ノ上の2駅で貨物取り扱いが廃止された。
78年(昭和53年)12月1日には中名寄、二ノ橋、宇津、沼ノ上の4駅が無人化、上名寄、中興部、小向、開盛の4駅が出札・改札業務を廃止するとともに、これら合わせて8駅の荷物取り扱いも廃止された。さらに二ノ橋、一ノ橋、宇津、沙留、小向、上湧別、湧別の7駅で貨物取り扱いが廃止され、「営業近代化」と称した合理化が始まった。80年(昭和55年)10月1日のダイヤ改正では興部~網走間の急行「天都」が廃止された。
その頃、国鉄の赤字や負債が問題とされ、ローカル線の廃止が議論されるようになり、80年12月27日に「日本国有鉄道経営再建特別措置法(国鉄再建法)」が公布され、81年(昭和56年)3月11日には施行令が出された。
国鉄再建法により、82年(昭和57年)11月22日、輸送密度(77年~79年の3年間平均)が2000人未満の第2次特定地方交通線が選定され、その中で名寄本線が廃止対象路線となった。
一方、輸送密度2000人未満でも「基準区間の旅客1人あたり平均乗車距離が30kmを超え、かつ当該区間における輸送密度が1000人以上であること」という廃止対象の除外規定があった。
名寄本線は、旅客1人あたり平均乗車距離が32.8kmと一つの基準はクリアしていたが、もう一つの基準である輸送密度は894人にとどまっていたため、廃止対象路線に選定されたのである。
沿線市町村では廃止反対の住民総決起集会を開催した。「父祖の築いた遺産を勝手に奪おうとするのか」「東北、上越新幹線の莫大な赤字に目をつぶり、わずかな赤字ローカル線を切り捨てるのは許せない」などと訴えながら、まちをデモ行進し、強い抵抗の姿勢を見せた。署名運動でも「全国一律の基準による選定であり、地域の実情を全く無視した暴挙である。私たちは廃止には絶対反対の立場であることを表明する」と訴えた。
手紙やハガキによる住民からの存続要請もあり「私たちのマチを走る鉄道が廃止されるということを聞き、ただ驚くばかりであるとともに、大変な怒りを禁じ得ない。大臣は本当に私たちの住む北海道の実情をご存知なのか。全国画一の基準で判断されてはかなわない。なぜ私たちばかりが国の犠牲を強いられるのか。世の中に正義と平等という言葉があるのならば、国鉄の廃止申請を却下する大英断をお願いする次第だ」と記した。
存続を願い、83年(昭和58年)5月13日に興部町で名寄本線沿線住民による廃止反対総決起集会を開催。8月27、28日に名寄農業高校定時制OB陸上クラブによる名寄~遠軽間往復リレーマラソンを開催した。9月10日には沿線住民が地元特産品の牛乳やジャガイモを携えて上京し、翌11日は東京・銀座の歩行者天国でデモ運動を展開した。
その間、82年11月15日ダイヤ改正で下川、上興部、西興部、興部、渚滑、中湧別の6駅で貨物取り扱いが廃止された。84年(昭和59年)2月1日ダイヤ改正では名寄本線全線で荷物取り扱いが全廃とされるとともに、紋別、元紋別の2駅も貨物取り扱いが廃止され、貨物列車が走らなくなった。
84年6月22日、運輸省は名寄本線をはじめ、天北線、池北線、標津線の「長大4線」の廃止承認を保留すると発表した。廃止対象の除外規定で「代替輸送道路が積雪により年10日以上通行不可能であること」という規定もあり、運輸省では「厳冬期を含め、100kmを超える長大路線に代替輸送としてのバス運行が可能かどうか、十分な調査ができる時期まで承認を保留する」を理由としていた。
これにより、廃止議論はいったん棚上げとなったが、その後、厳冬期の調査を経て、バス転換は可能であるとして、廃止議論が再燃することになる。
(続く)