廃止から35年 名寄本線

名寄、天北、池北、標津の「長大4線」廃止承認 名ばかりの厳冬期調査、特定地方交通線対策協議会

名寄本線が第2次特定地方交通線に選定され、沿線では廃止反対の総決起集会や署名運動などが展開された。その後、運輸省は「厳冬期を含め、100kmを超える長大路線に代替輸送としてのバス運行が可能かどうか、十分な調査ができる時期まで承認を保留する」を理由として、廃止承認が保留され、いったんは廃止議論が棚上げとなった。
運輸省による厳冬期の調査が1985年(昭和60年)2月19、20日に行われた。だが、この日は春のような天候で「厳冬期調査」とは名ばかりなものだった。沿線の首長たちは猛吹雪のテレビニュースのビデオ映像を見せながら「吹雪の時は除雪しても、すぐに道が埋まる。定期バスは“不定期バス”になり、運休することが多い」と訴えるとともに「仮に廃止するにしても安心してバス転換はできない。交通弱者は寒さをこらえてバスを待たなければならない」と廃止への不当性を強調した。
その一方で、沿線の住民が直接、存続アピールを行う機会のない「セレモニー」の色彩が強かった。下川町の住民たちは「廃止推進の調査団」との見方で「運輸省から申し入れのあった時点で、町内の各界で構成する町民会議に調査目的、対応の方法の相談が全くなかった。住民の声を聞かず、調査団に同行する存続運動の進め方は疑問。何らかのアピールを行ってほしかった」と疑問や不満の声を上げた。
85年7月26日、国鉄再建監理委員会は最終答申を打ち出し、名寄本線など第2次特定地方交通線は全て廃止する方針とした。85年8月2日、運輸省は名寄本線をはじめ、天北線、池北線、標津線の「長大4線」の廃止承認を発表した。理由は「厳冬期調査をはじめとして、沿線各地域の気象条件、代替道路の不通状況、バスの運行状況などについて調査してきた。多方面からバス運行が可能か否かについて十分慎重に検討してきたが、法令基準に照らして、バス転換が困難であるという特別な理由を見出すことができなかった」というものであり、廃止議論が再燃することになった。
沿線自治体は廃止承認に対して反発を強め「儲かっている、おいしいところだけ取って、これで国民のための政治といえるものか」という声が出た。
存続の要請を続けてきたが、86年(昭和61年)7月15日、国主催の特定地方交通線対策協議会のテーブルに着かざるを得なくなった。
同協議会の中で、沿線自治体からは「旅行代理店に天下っている国鉄OBが、廃止対象になっている路線のツアー企画に対して『輸送密度が上がっては廃止もできなくなるから中止せよ』と指示を出し取りやめさせたという」と内幕を暴きながら「増収を図らなければならない使命を負っている国鉄なのに、利用客無視、経営感覚麻痺のやり方ではないか」と強い不満をぶつけるとともに「公共性を旗印に掲げる国鉄は効率性や企業性の追求だけではなく、21世紀に向けての北海道発展のための総合交通体系を樹立し、基幹となる鉄道を存続すべきものと考える」と訴えた。
86年11月1日のダイヤ改正では、札幌~名寄~遠軽間の急行「紋別」、旭川~遠軽~興部間(下り)、名寄~遠軽~旭川間(上り)の急行「大雪」(遠軽~興部間、名寄~遠軽間は普通列車として運行)が廃止されるとともに、上名寄、一ノ橋、西興部、渚滑、元紋別、上湧別、開盛、湧別の8駅が無人化された。
87年(昭和62年)4月1日、国鉄は分割民営化され、長大4線は「2年間はJR北海道が運行する」という期限付きで引き継がれた。沿線自治体では住民に対し、鉄道運賃の助成を行うなど、存続を目指して運動を続けてきた。
特定地方交通線対策協議会は初回開催日から2年間のタイムリミットが設けられ、期限を過ぎると、地元の意向や承認とは関係なく、鉄道路線廃止とバス転換を行うことができる「見切り発車」を強行することが可能だった。88年(昭和63年)7月11日に同協議会の幹事会を開いて期限の延長を図った。
88年9月1日、自民党と社会党の政治折衝により、比較的乗降客数が多かった名寄~下川間(16.5km)と紋別~遠軽間(49.9km)を第3セクター化して部分存続させる案が浮上した(下川~紋別間はバス転換)。
部分存続案に対し、沿線では費用負担などを巡って大きな議論が起こった。
(続く)