全線開業以来68年の歴史に幕 代替バスは3分割、鉄道跡は薄れる
第3セクター化による名寄~下川間、紋別~遠軽間の部分存続案が出されるも、地元負担が重たかったため、全線の鉄道存続を断念し、バス転換が決まった。
1989年(平成元年)4月30日、JR名寄本線の最終営業運行を迎えた。遠軽駅からは7両編成、名寄駅からは5両編成の「さよなら列車」が運行され、沿線市町村ではお別れ式が行われた。
名寄駅では午前9時43分から3番ホームでお別れ式が行われ、JR北海道旭川支社の竹田司支社長(当時)は「鉄道の役割が変化し、名寄本線もバス転換となった。長い間、利用してくださったことに感謝しています」と挨拶した。
名寄市の桜庭康喜市長(当時)は一日駅長を務め「来てほしくなかった名寄本線のお別れ式を迎えた。時代の波には勝てず、きょうの日を迎えることは心から残念でなりません。鉄路の廃止に伴う地域課題が残っており、この解決に明日から新たな活動を始めていくスタートにしなければなりません」と挨拶した。
その後、名寄市から乗客代表、運転士、車掌に花束が贈られ、桜庭市長が出発合図、名寄中学校吹奏楽部が演奏する「蛍の光」に送られ、午前10時01分、「さよなら列車」がホームを後にした。
「さよなら列車」は午前10時16分、下川駅に到着。下川町の原田四郎町長(当時)が「地域発展に大きな役割を果たした鉄路が、歴史にピリオドを打つのは誠に残念。7年間の反対運動が実らず、力不足を町民にお詫びしたい。わが町の歴史の80%は鉄路とともにあった。廃止は万感胸に迫る思い」と挨拶した。
西興部村、興部町、紋別市、湧別町、上湧別町、遠軽町でもお別れ式が行われ、沿線住民や利用客、鉄道ファンが別れを惜しんだ。名寄本線は21年(大正10年)10月5日の全線開業以来、68年足らずの歴史に幕を下ろした。
89年5月1日、代替バスが運行をスタートした。午前7時40分から名寄駅前停留所で出発式が行われ、下川商業高校生徒らが乗り込み、バスは出発した。
代替バスは当初、旧鉄道駅付近の停留所のみ停車する快速便、名寄~紋別間、名寄~遠軽間の直通便も設定され、名士バスと北紋バスが相互乗り入れを行っていたが、2002年(平成14年)4月1日に快速便や名寄~遠軽間の直通便が廃止され、05年(平成17年)10月1日には名寄~紋別間の直通便も廃止された。
以降は名寄~興部間、興部~紋別間、紋別~遠軽間に3分割され、名寄~興部間は名士バス、興部~紋別間は北紋バス、紋別~遠軽間は北紋バスと北海道北見バスで運行し、現在に至っている。バスの運行本数は鉄道時代とほぼ変わらず、沿線住民の通学や通院、買い物などで貴重な足となっている。
鉄道廃止から35年が経過し、一部の駅舎(中名寄、上興部、中興部)、ホーム(中湧別)、橋が残っているが、線路跡は農地や道路となったり、山間部では原野にかえったりするなど、鉄道があった形跡は薄れてきている。
また、並行する国道では鉄道跨線橋(上名寄跨線橋、宇津跨線橋など)が撤去された箇所もある。国道239号の天北峠(下川町・西興部村境界)では視距改良工事として、名寄本線の路盤跡も転用して線形改良に着手している。
これまで全7回にわたって名寄本線について連載してきましたが、リアルタイムで知らない世代も多くなっており、あらためて沿革を振り返ることにしました。
「本線」が全区間廃止されたのは名寄本線が史上初めてのことですが、その後、留萌本線のうち留萌~増毛間が2016年12月5日、石狩沼田~留萌間が23年4月1日、根室本線のうち富良野~新得間が24年4月1日に廃止されました。留萌本線の残る深川~石狩沼田間も26年3月末の廃止が決まっており、留萌本線も全区間廃止されることになります。
さらに、函館本線の長万部~小樽間は北海道新幹線の開業後に廃止されることが決まり、新函館北斗~長万部間は貨物列車専用路線とする方向で議論されています。
一方、宗谷本線の名寄~稚内間、石北本線の新旭川~網走間(全区間)、釧網本線の網走~東釧路間(全区間)、根室本線の滝川~富良野間と釧路~根室間など、8線区が「JR単独維持困難線区」に位置付けられており、「本線」も存続が危ぶまれています。
名寄本線が廃止された当時には、近年の「本線」が相次いで姿を消すこと、存続が危ぶまれることは想像できなかったと思われます。
今後も北海道の鉄道の動向を注視しなければなりません。最悪の場合、札幌圏しか鉄道が残らないという事態も想定されます。
お付き合いいただき、どうもありがとうございました。
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