自衛隊イラク派遣から20年 6

6 派遣を支えた人々の紹介

名寄駐屯地の隊員のイラク派遣は、当時、国民の不安が大きく、名寄市民の間でも不安が広がっていた。
派遣期間中に、留守家族などを支えた木賀義晴さんと吉田素子さんに話を伺い、島多慶志さんから寄稿をいただいたので紹介する。

木賀義晴さん(81)前名寄市自衛隊後援会会長・現特別参与
イラク派遣当時は、名寄市自衛隊後援会の会長、名寄駐屯地隊区イラク派遣自衛隊員留守家族支援本部の本部長代理として留守家族などを支えた。支援本部の事務局は商工会議所内に設置され、支援物資の調整や相談業務などを職員と一緒に担った。
当時を振り返り、先ず、駐屯地から依頼され、こいのぼりを集めたことを挙げる。「自衛隊が支援物資と一緒に船で送るため、期間が1週間と限られた中、市民の皆さんにお願いして、何とか100匹を集めて駐屯地に届けることが出来た」。
次に、島市長、吉田美枝子自衛隊協力婦人会長(いずれも当時)と一緒に駐屯地に呼ばれて、「番匠さんと、テレビ電話で話すことが出来、その時、こいのぼりを見ることが出来た」。「現地の映像を映してくれ、状況を聞くことが出来、忘れられない」と話す。
また、防衛庁(当時)の外郭団体の職員2人が名寄を訪れ、こいのぼりを含めた支援活動について取材を受けた。細かい部分も含めて色々と話し、その後「名寄の支援活動がモデルとなって、各地の支援活動につながったと思う。また、高山治彦さん(番匠さんの前の駐屯地司令)も視察に訪れた」と語る。
イラク派遣の任務は、常に危険と背中合わせで、番匠さんには、「全員無事に帰って来ることが大成功です。何をしたかではありません」と伝え送り出した。
名寄駐屯地からは、100人強の隊員が派遣された。定年近い知り合いの隊員から「実弾訓練などが物凄く、とにかく訓練が厳しかった。早く現地に行って活動したかった」と聞き、厳しい訓練を経て現地に行き、全員が無事に帰国したことに安堵した。
改めて20年を振り返り、「名寄駐屯地は『北の守りの最北』。歴代司令の皆さん全てが、その重要性を認識している」と述べ、名寄駐屯地の重要性・存在意義を説明する。
だからこそ、「我々市民もそれに甘えないで、自衛隊の存在に感謝しながら、活動を支えて、お付き合いをしていきたい」と話す。

吉田素子さん(71)前名寄地方自衛隊協力婦人会事務局長・現会長
イラク派遣当時は、名寄自衛隊協力婦人会の事務局長として吉田美枝子会長らとともに、留守家族などを支え、2011年から会長を務めている。
協力婦人会では、派遣が決まると、英文で「任務完了し無事帰還」と書かれたTシャツを、願いを込めて作成し、派遣全隊員に配布した。
また、会員を中心に多くの女性で、無事帰還することを願い「千人針」の刺繍を製作した。これは現在も、駐屯地の北勝館に飾られている。
隊員の派遣期間中は、留守家族の支援を積極的に行った。留守家庭に電話連絡し、可能な場合は家庭訪問などを行い、家族の不安を少しでも取り除けるような活動を展開した。
5月には、旭山動物園に100人近い家族を招待し、子ども達は大いに喜んだ。動物園には、吉田会長をはじめ、河野芳久第2師団長、門司佳久4高群長(司令代理)、島多慶志市長なども参加し、小菅園長(いずれも当時)が出迎えてくれた。「子どもの同級生の親が派遣されたこともあり、私も子どもと一緒に動物園に行って、とても楽しいひと時を過ごすことが出来た」と笑顔で振り返る。
黄色いハンカチ運動なども実施し、母(吉田美枝子会長)は、名寄の部隊が撤収した後も派遣部隊が全て撤収するまで「バッグに着けていた」と話す。また、名寄の留守家族の支援活動が、広報や報道機関を通して、「その後に派遣された駐屯地の留守家族の支援活動の参考につながった」。
2月の派遣部隊の見送りの際は、多くの知り合いが装甲車両に乗っており、「送り出すのがとても切なかった」と述べる一方、「名寄市民と隊員とのつながりの強さを感じた」と話す。
20年が経過した現在、「あんなに不安な思いは二度としたくないが、人間は愚かなもので、世界中で紛争が起こっている」と振り返り、「名寄は元々自衛隊と市民は良い関係であったが、イラク派遣をきっかけに、さらに強くなった」。
また、「名寄駐屯地が第1次の派遣部隊に選ばれたのは、ある意味当然であったかもしれないし、市民の側もそれに応えた」と述べる。
さらに、「派遣から20年が経過したが、全く風化していない」と話し、「番匠さんは、派遣隊員全員を無事に帰還させてくれた特別な人」。
7月13日に予定されている番匠元司令の記念講演会について、「派遣中に生まれた赤ちゃんや、大きくなった子ども達を、番匠さんには見てほしい」と話し、「大歓迎したい」と笑顔で語る。

〈寄稿〉
「イラク・サマーワ派遣の思い出」
前名寄市長・前名寄地方自衛隊協力会会長 島 多慶志
2003(平成15)年は、二度目となる国民体育大会冬季スキー競技会の開催を「サンピラー」国体と名付けて誘致に成功し、市民の総力で2月22日から4日間スキー国体を開催できました。
また、国が勧める平成の大合併と呼ばれた市町村合併について近隣市町村と合併に対する研究会の開催や住民説明会の実施など多忙な年でした。
年末の12月2日付新聞に、「イラク・サマーワでの人道復興支援派遣指揮者に名寄駐屯第3普通科連隊長兼駐屯地司令の番匠幸一郎1佐が決定」と報道されました。
マスコミ報道が伝わり、市民の中でイラクでの人道復興支援に対する不安や、留守家族の支援をとの声が高まり、04年1月19日に留守家族支援本部を組織し、事務局を名寄商工会議所に設けました。相談窓口は、市役所と商工会議所に開設しました。
イラク・サマーワは、治安が比較的安定しているところとの情報に接していましたが、市議会で「隊員市民の危険な海外派遣ではないか」と、問われたことを思い出します。
1月31日には、名寄地方自衛隊協力会や地元協力諸団体による壮行会を開催いたしました。2月1日には、旭川駐屯地において小泉純一郎首相からイラク派遣隊旗が番匠幸一郎第1次復興支援群長に手渡され、改めて、地元市長として、イラク派遣を支援する責任を自覚しました。
2月20日早朝、イラク派遣復興支援主力部隊の出発式が名寄駐屯地で開催されました。地元自衛隊協力諸団体の多くの人が参加されました。寒さと緊張で震えながら、第1次派遣隊として支援活動のレールを作ってきてほしい気持ちで激励の挨拶をしたことを、昨日の出来事のように思い出します。
留守家族の支援では、派遣隊員と家族の皆さんの現地からのテレビ電話を思い出します。名寄自衛隊後援会会長の木賀義晴さん、名寄地方自衛隊協力婦人会長の吉田美枝子さん、私も番匠群長の元気そうな顔と声を聞くことができました。
地元留守家族の支援事業は、種々取り組みました。私も、旭山動物園へ希望者と一緒に行きました。
現地住民とのコミュニケーションにご苦労されていた番匠群長から「鯉のぼり」の鯉の送付依頼がありました。支援本部が市民に呼びかけ多くの鯉が寄せられました。我が家でも、古い鯉数匹を届けたことも良き思い出です。
イラク・サマーワの気象状況は、昼間は40度以上、夜間は、冷え込むと聞かされていました。厳しい環境で人道復興支援活動に励まれている隊員の皆さんに敬意を表する気持ちで、派遣期間中、断酒をしました。
5月31日に番匠群長、隊員の皆さんの元気な姿を見た帰国出迎え式を終えて、3カ月振りのおいしい酒を口にしました。
9月29日に留守家族支援本部を解散することができました。事務局長を担当した名寄商工会議所の菊池隆志専務、事務局のスタッフの皆さんにご苦労をおかけしました。感謝いたします。
今日も、ウクライナでのロシアとの対戦、イスラエル軍のガザ地区への侵攻が報道されています。争いのない世界を願い、イラク・サマーワ派遣の回顧記といたします。(2024年6月1日) 
 (松島)