待望の特急列車が運行開始 札幌まで所要時間短縮、スピードアップ
国鉄分割民営化後も名寄本線や深名線の廃止など、暗い話題が多かった名寄界隈の鉄道だったが、一筋の明るい兆しが見えてきた。特急列車の運行に向けて宗谷本線の高速化に動き出した。
分割民営化当時、宗谷本線は急行列車で、札幌~稚内間で宗谷本線経由の「宗谷」、同区間で天北線経由の「天北」、同区間で宗谷本線経由、夜行の「利尻」、旭川~稚内間で宗谷本線経由の「礼文」の合計4往復だった。1989年(平成元年)5月1日、天北線廃止により「天北」は宗谷本線経由に変更され、「宗谷」が2往復となった。沿線自治体の要望により、92年(平成4年)7月1日から「宗谷」の1往復を「サロベツ」に愛称変更し、「宗谷」「サロベツ」「利尻」「礼文」の合計4往復体制となったが、急行の最高速度は時速95kmにとどまり、最速で札幌~名寄間が2時間50分ほど、札幌~稚内間では5時間50分ほど要していた。車両は「宗谷」「サロベツ」「利尻」がキハ400形気動車、「礼文」はキハ54形気動車。キハ400形はキハ40形からの改造で、座席とエンジンは特急車両と同等の仕様とし、冷房を追加した。キハ54形は0系新幹線の座席を転用したが、冷房は無かった。
特急列車運行は地域の発展、振興に欠かせないとして、沿線自治体が国鉄時代から長年、要望を続けていたものだが、当時の特急運行線区と比べると利用客が少なかったことから、実現は見送られていた。
沿線住民の利便性向上を図るため、第一歩として94年(平成6年)12月2日、沿線自治体や議会、商工、観光関係団体などで構成する宗谷本線特別急行列車運行実現期成会が発足し、さらなる要望や陳情を続けた。
しかし、当時のJR北海道は「宗谷本線への特急導入は困難」という基本姿勢で「特急を走らせるためには、路盤改良や急カーブ区間を緩和する作業が必要。地元の熱意は理解しているので、全体的に試算したが、膨大な資金がかかる」と言い、困難な情勢だった。
風向きが変わったのは、96年(平成8年)8月21日、運輸省が97年度(平成9年度)概算要求に、宗谷本線の旭川~名寄間高速化(特急運行)事業として、幹線鉄道活性化事業費補助事業に盛り込むという見通しが立った。同期成会ではあらためて国や道へ陳情を行い、同年12月24日に高速化事業が採択され、正式決定した。
97年9月16日には第三セクターの北海道高速鉄道開発株式会社が設立された。同社が事業主体となり、同年10月22日、宗谷本線高速化事業の起工式が名寄駅で行われ、工事がスタートした。
同事業は、新型車両を導入して最高速度を時速130kmにアップするとともに、地上設備の改良として軌道強化(路盤増強、コンクリート枕木敷設など)、駅構内整備(ポイント改良など)、曲線整備(傾斜改良など)、駅保安設備更新などを32億円で実施。また、車両3編成12両を20億6千万円で導入した。
事業費は国が6億4千万円、道と名寄市、士別市が12億8千万円(うち名寄市1330万円、士別市1230万円)を負担し、残りはJRの出資金12億8千万円と北海道高速鉄道開発の借入金で賄った。
一方、沿線住民向けには、97年7月から8月にかけてリゾート車両の「ニセコエクスプレス」を使用し、臨時特急「リゾートわっかない」を旭川~稚内間で運行。98年(平成10年)も7月から8月まで「リゾートわっかない」を運行した。99年(平成11年)7月から8月にかけては、お座敷車両も連結したキハ183系気動車の臨時特急「わっかない」を札幌~稚内間で運行し、機運を高めた。
新型車両のキハ261系気動車は1編成4両が98年11月に完成し、試運転を開始した。99年度中に2編成8両も完成した。99年1月20日には沿線関係者を招いて試乗会が旭川~名寄間で、同年8月7日には一般向けの展示会が名寄駅で、2000年(平成12年)2月20日には一般向けの試乗会も開かれた。
当初、特急はキハ261系による2往復で、残る2往復は急行で存置するとしていたが、99年8月4日に4往復全てを特急として運行することが決まり、キハ261系の2往復、キハ183系の2往復の体制となった。
2000年3月11日、待望の特急列車が運行を開始した。各駅ではセレモニーが開かれ、沿線が一丸となって念願の運行開始を喜び合った。
当初は札幌~稚内間の「スーパー宗谷」2往復をキハ261系、同区間の「サロベツ」1往復と同区間で夜行の「利尻」1往復をキハ183系で運行した。キハ261系は時速130km、キハ183系は時速120kmで運転し、最速で札幌~名寄間が2時間20分ほど、札幌~稚内間では5時間ほどで結び、所要時間短縮とスピードアップが図られた。
(続く)


