開拓期から現代へレールつなぐ 士別~名寄間 鉄道開業120年

深名線も廃止 利用客が少なくなり…

国鉄分割民営化、JR北海道発足後も、普通列車や快速列車のワンマン化、貨物列車の廃止など、合理化が進められたが、その中で深名線(深川~名寄間)の存廃も取り沙汰されるようになった。
深名線は1968年(昭和43年)9月4日、「赤字83線」の一つとして廃止対象路線に盛り込まれ、直後に沿線自治体で「深名線廃止反対期成会」が発足した。72年(昭和47年)7月12日には名寄市内の沿線住民が鉄道存続を求めて嘆願書を提出した。
80年(昭和55年)12月27日施行の「国鉄再建法」では、第2次特定地方交通線(輸送密度2000人未満の路線)として廃止対象路線とみられたが、並行道路が未整備だったため除外され、廃止を免れていた。
その間、営業近代化として82年(昭和57年)3月29日、天塩弥生、添牛内、雨煙別、沼牛、幌成、上多度志の6駅が無人化され、朱鞠内、幌加内、多度志の3駅は切符販売などを業務委託とした。荷物は北母子里、朱鞠内、政和、幌加内、鷹泊、多度志の6駅、貨物は幌加内、多度志の2駅のみで取り扱うとしたが、貨物は82年11月15日、荷物も84年(昭和59年)2月1日で取り扱いが全廃され、合理化が進められた。
91年(平成3年)10月1日に道道688号名寄遠別線の名母トンネル(幌加内町母子里~名寄市瑞穂間)が供用開始した。一方で以前から深名線の利用客が少なくなってきたため、93年(平成5年)ごろから存廃問題が浮上してきた。
当時、年間の収入が5000万円ほどに対し、経費は10億円近くかかっていた。1日の利用客数は100人台に乗る程度で、通勤定期券の利用客はいなかった。1日16本の列車に対して1列車平均の利用客数は10人ほどで、輸送密度は80人/日ほどだった。
また、他のローカル線が経費節減のためワンマン運転を導入している中で、深名線の列車には車掌が乗務していたことから「廃止路線に余分な投資はできない」という憶測も生じていたという。
そういった状況から、94年(平成6年)12月10日、JR北海道が深名線のバス転換を沿線自治体に提示した。12月28日には沿線自治体が「JR深名線問題対策協議会」を発足させ、JRと協議してきた。
利用状況を背景として、名寄本線の廃止前とは対照的に、深名線の廃止反対運動が大きく盛り上がることはなかったが、沿線自治体では代替バス運行について「所要時間が伸びて運賃が高くなるのに、本数が増えないのは困る」と反発したため、JR北海道では「鉄道の2倍の運行本数」という案を提示した。
95年(平成7年)5月16日の同協議会で沿線自治体は鉄道廃止、バス転換に合意した。7月25日から定期列車への増結、イベント列車の運行も始まった。9月3日に最終営業運行を迎え、「さよなら列車」が走るとともに、沿線でお別れイベントが開かれた。9月4日、代替バスが運行開始した。
廃止、合理化など暗い話題が多かった名寄界隈の鉄道だったが、一筋の明るい兆しも見えてきた。宗谷本線の高速化、特急列車運行に向けた動きが出てきた。
(続く)