BOOKLAB.書籍紹介 虫を描く女(ひと):「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯

著者:中野京子 出版社:NHK出版 出版年:2025年

 本書は2002年に出版された『情熱の女流「昆虫画家」 メーリアン波乱万丈の生涯』を復刻したものだ。本書の主人公マリア・シビラ・メーリアン(Maria Sibylla Merian、1647〜1717)は17世紀ドイツ、そしてオランダを拠点に活動した画家である。1992年から2002年まで流通していたドイツ紙幣の肖像にも選ばれていた。本書表紙を飾る2匹のモルフォ蝶と1匹の幼虫、アメリカンチェリーは彼女の作品の1つである。
 メーリアンの生涯について簡単に触れながらその先駆的な姿を紹介したい。彼女は出版工房を営む父のもと、当時の女性が経験することが困難だった美術教育を受け、また幼少より昆虫の生態に強い関心を持っていた。結婚と出産、夫の家に仕えるという女性の型にはまったライフプランを歩ませようとする母の圧力に悩まされながらも、画家そして昆虫研究者としての道を追い続けた。当時の昆虫に関する常識や眼差しは大きく異なっており、昆虫を観察することは褒められたものどころか、奇異の対象だった。当時幼虫と成虫は別個の生物としてみなされ、幼虫はゴミ溜めや泥から「自然発生する」という考えが強固に残っていた。悪魔の仲間とさえ思われていたようだ。そうした考えの方が「常識」だった時代に彼女は昆虫の面白さや美しさを見出し、当時受容されていなかった昆虫の変態を観察し、絵に表した。
 彼女の異質さと昆虫への飽くなき関心、先見性はそれだけにとどまらない。50代に入ってから、これまた当時の女性では実現困難だった南米スリナムへの渡航滞在を実行し、1年半にわたって現地の昆虫を中心とする生物の観察と採集を行なった。帰国後、現地でのスケッチに基づいた『スリナム産昆虫変態図譜』を出版し、大きな話題をさらった。昆虫の珍しさや美しさだけでなく、果実や幼虫にも手抜かりがない。さらに画面構成にも長けており、彼女の作品は博物的な価値だけでなく、美術品としても多くの人々の関心を惹きつけたと言われても頷ける。
 ところで本書の著者は「怖い絵」、「名画で読み解く 12の物語」などのシリーズを手がけてきた中野京子である。大人気シリーズになった「怖い絵」は2007年の第1作刊行以来、作品に描かれた歴史的悲劇やスキャンダラスな人間関係といった側面から絵画鑑賞をさらに奥深いものにし、絵画の解説書として高い知名度と人気を誇っている。絵画の歴史的、風俗的背景を単に情報として伝えるのではなく、人物の感情や風景への感覚を鋭敏にし、緻密にかつ丁寧に語る様は中野のテクストが多くの読者を獲得した所以ではないだろうか。
 そんな中野が1冊丸まるごと1人の人物にフォーカスするのは珍しい印象を受ける。中野は、女性の生き方がひどく制約されていた時代におけるメーリアンという女性の生涯をその型を破った軌跡として描いている。数多の西洋芸術の解説シリーズが明快で精緻な短編映画であるとすれば、本書は彼女の生き様を長編映画や長編ドラマのように映し出す。メーリアンの確かな技術と熱心な観察眼、絵画と昆虫を極めるのだという意志を、中野は巧みな想像力と言葉でドラマティックに描いている。もちろん当時の社会的/歴史的背景を説明すること、そしてメーリアンに関する資料に関しても仔細な解説が加えられている。読み手は中野の語りによって彼女の眼差しや息遣いに触れたかのように錯覚する。色鮮やかで標本を紙上に写し取ったようなメーリアンの作品と彼女の強かな人生を同時に味わうができる情熱的なメーリアン伝である。
 ちなみにメーリアンの作品は『スリナム産昆虫変態図譜』の複製をベースに、全国の博物館や図書館で展示される機会が増えている。彼女の執念深さがこもった美しさと生命力に溢れた昆虫は17世紀のオランダから、21世紀の日本へと次々に降り立っている。

書き手:上村麻里恵

BOOKLAB.のサイトはこちら                BOOKLAB.過去のおすすめ本のご紹介はこちら