公衆浴場の変遷
日本人は風呂好きで有名だそうですが、自宅に湯舟があるのが当たり前になったのは歴史的には最近の話で、上水道の給水開始(旧名寄市は昭和35年、風連町は昭和36年)や石油系燃料が簡単に大量に利用できるようになった事が大きいのです。それ以前、大多数の人は公共の浴場で衛生を保ち、一日の疲れを癒していたと考えられます。
名寄初の公衆浴場は旭湯(明治40年)とされます。名寄に市街地が形成され始めたのは明治37~38年頃からで、地域の人口が増えるにつれ、浴場の需要が増し、事業として成立する状況になったということだと考えられます。初期には井戸水を木質燃料で、のちに石炭などで沸かしました。
公衆浴場は昭和40年ころに最もにぎわったとみられますが、以降、人口減少や家風呂の普及といった社会情勢の変化に伴い、徐々に数を減らしていきました。
新たな市史の記述期間である平成初期時点では、現市の区域に7軒あまりの公衆浴場が営業していましたが、大多数が営業をやめました。廃止された施設と年次は以下のようになります。
幸福温泉(西4南5、~平成元年)、栄湯(西1南4、~平成2年)、福の湯(西6北2、~平成7年)、平和温泉(西4南4、~平成7年)、緑丘湯(字緑丘、~平成12年)、瑞生の湯(風連町本町、~平成15年)、日の出湯(大通南10、~令和元年)
平成期、いわゆる銭湯は衰退しましたが、レジャー要素の強い浴場は一定にぎわいました。名寄温泉(サンピラー。平成8年開業。前身は昭和57年開業の名寄市林業保養センター。現在も営業)、ホテルピヤシリ(平成11年閉館。沸かし湯だったが「薬草温泉」を称した)、ふうれん望湖台センターハウス内浴場(平成24年閉館)といった宿泊施設付属の温浴施設などがそうです。サウナ(グランドホテルメープル内とグランドホテル藤花内施設)や岩盤浴(「いわっ子」「ゆー楽」。いずれも風連市街。)といった新たなタイプの施設ができ、また、廃れたのも平成期の出来事です。
「ピヤシリヘルシーゾーン構想」や、「風連カーオアシス構想」、「名寄駅前開発構想」など平成期の各種開発プロジェクトで、温浴施設は常に構想の目玉にあげられた施設でしたが、平成期を通して、公衆浴場を事業として成立させるのは厳しい地域情勢があったといえるかもしれません。
レジャー要素の強い施設の中で、一時代を築いたのが、健康レジャーセンター「湯らん銭」(西10北1)です。平成7~17年にかけて営業し、市民に愛された、いわゆるスーパー銭湯でした。マツダ電機(本社札幌)が開業した地上2階地下1階建ての大型施設で、多種類の浴槽を備え、家族風呂や軽食コーナーなども併設されていたそうです。『ゲームコーナーから子どもを引きはがすのに大変苦労した』といった、楽しい思い出話も記録されています。燃料高騰による経営打撃を受け、廃止を余儀なくされたということで、現在、跡地は駐車場などになっていますが、航空写真を見ますと、基礎の一部ではないか?と推定される痕跡を確認することができます。
さて、ここで市民の皆様にお願いです。平成期の公衆浴場や温浴施設について、資料や思い出があれば、ぜひ教えていただきたいのです。平成期の名寄の市民生活を彩る資料として、ぜひ保存したいと考えています。(竹田)