【名寄】
札幌市内在住、元陸上自衛隊名寄駐屯地勤務の成瀬健太さんは、同人誌「我らここに励みて国安らかなり」を刊行した。第3普通科連隊(現・第3即応機動連隊)を中心とした名寄駐屯地の草創期の歩みをはじめ、留萌駐屯地と北海道人造石油留萌研究所について記している。
成瀬さんは1983年、旭川市の生まれ。短大卒業後、陸上自衛隊に入隊し、2010年の退職まで名寄駐屯地の第3普通科連隊対戦車中隊に所属した(同中隊は11年3月廃止)。民間企業勤務を経て、札幌国際大学に編入学。現在、札幌市内で民間企業に勤務する傍ら、道内の地方史や自衛官時代を回想した文芸同人誌を発刊している。
自衛官現職時代から名寄駐屯地の歴史を調べようとする思いがあり、今回の同人誌発刊に至った。
「名寄駐屯地過去の記録」では、第3普通科連隊、第3即応機動連隊の歴代連隊長(駐屯地司令兼務)の氏名を載せるとともに、初代連隊長の中山忠雄氏から4代目の堤政二氏の履歴を紹介。4人とも旧陸軍を経ており、中山氏は戦時中、歩兵中佐で陸軍参謀本部参課として満州、中国、南方を転戦した。
名寄駐屯地は、1952年12月5日に保安隊先遣隊が入り、53年3月5日に本部隊の第一陣が到着。同年5月24日に開庁式が行われた。
当時の週刊名寄タイムス、その後継となる名寄新聞、北海道新聞の記事を交えながら、第3普通科連隊を中心に名寄駐屯地の草創期を振り返っており、名寄新聞では55年3月2日付から4日付にかけて「隊員の聲(こえ)をきく」と題して、隊員と記者の座談会を掲載。「遊び場が少ない」「物価が高い」といった話も出ていた。
また、事故や訓練で殉職した自衛官の調査結果、山林火災や行方不明者捜索、水害などの災害派遣の記録も掲載している。
「留萌駐屯地の開庁と北海道人造石油株式会社留萌工場」では、名寄駐屯地の第3普通科連隊第3大隊が留萌へ移駐し、53年11月20日に留萌駐屯地が開設。移駐先はかつての北海道人造石油留萌研究所の建物で、現在も使用している。
北海道人造石油は、国策によって38年12月に設立され、留萌研究所は40年10月に開設。その他、滝川市に工場があり、石炭を液化させて石油に精製し、出荷するとともに、戦地にも送られていた。
留萌研究所は、雨竜炭田や留萌炭田により石炭の埋蔵量が豊富にあることなどを理由に開設されたが、工場群の工事が資材不足で遅れ、45年8月の終戦により廃止され、滝川工場のように生産段階には至らなかった。
留萌駐屯地の開設当初をはじめ、北海道人造石油留萌研究所の沿革について新聞記事を交えながら掲載。同研究所の跡地を写真で紹介している。
同人誌のタイトルは、取材で訪れた留萌駐屯地の勤務隊舎前や、自衛官時代の訓練で移動した東千歳駐屯地の営門前にある標柱から由来している。
成瀬さんは「記念誌に載っていないような裏の話もあるはずで、調べてみたいと思っていたが、現職当時の力量では調べられなかった。同人誌は予想以上のページ数に増えていて驚いた。また発刊しようと思えば発刊できるので、昭和30年代を中心に調べてきたことがあり、何らかの形でまとめたい」と意欲を語っている。
同人誌は150部を発行し、名寄駐屯地と留萌駐屯地の広報室をはじめ、自衛官時代の同期、先輩、後輩に寄贈した。
販売もしており、問い合わせは成瀬さん(電話090‐9721‐8115、メールkenta_naru@ymail.ne.jp)へ。