作家(翻訳者等含む):著/ジョージ・エリオット 訳/小尾芙佐 出版社:光文社 新訳古典文庫 出版年:2019年
ジョージ・エリオットという名を聞いて、どんな人を思い浮かべるだろうか。
多くの人が男性を想像するだろうが、実はこの著者は本名メアリ・アン・エヴァンズという女性だ。19世紀ヴィクトリア朝時代を、雑誌編集者・作家として生きた、才気に溢れる並々ならぬ努力の人である。今回紹介する彼女の小説『サイラス・マーナー』が出版されたのは、今から約160年前のこと。文界に限らず多くのコミュニティでも同様だが、当時の社会では働く女性を軽視する風潮が強く根付いていた。エリオットが男性名をペンネームとしたのは、そんな中で作品を世に出版するためだった。
さて、タイトルにある『サイラス・マーナー』とは本作の主人公の名前である。
彼は大きな町に生まれ、戒律に厳格な宗教に帰依し信者達と生活していた。しかし9年来の親友に窃盗の濡れ衣を着せられ、さらには婚約者からも裏切られたことで絶望のどん底に至り、片田舎ラヴィローで機織りをしながらひたすら金貨に執着するようになる。稼いだ金を夜毎数えることだけが唯一の慰みだった彼に、さらなる不幸が訪れてしまう。その出来事がきっかけとなり、これまで遠ざけてきた村の人々との交流が始まる。
タイトル通り彼の人生を我々読者は追っていくのだが、そこには彼以外の登場人物達が色濃くその存在感を露わにする。ラヴィローの郷士の嫡男であり優柔不断なゴッドフリー、その妻となるナンシーといった階級の高い者から、マーナーに良くしてくれるお節介な主婦ドリー、村の酒場に集まる旦那達など。当時の階級社会のあり方、田舎に特有の密な人間関係が、繊細かつリアリスティックな筆致で描かれる。
金を数えるだけが趣味というと嫌らしい守銭奴のように聞こえるが、信仰も信頼も崩れ去ったマーナーにとっての、最後の頼みの綱は自分で稼いだ金貨だけだ。彼の切実さに読者は同情し、哀れみ、共感する。その読者の感情を裏切るようにマーナーを襲う災難に、目を塞ぎたくなる人は多いだろう。
しかし、そんな彼を前向きにさせるきっかけとなるのもまたその災難なのだ。素性が知れぬマーナーを遠ざけてきた村の人々は、彼を襲ったある事件がラヴィローに知れ渡って以降、不器用に無遠慮に、しかし同情と温かみをもって彼に接するようになる。我々読者も同様に感じる分、彼らの優しさがしみわたる。
マーナーとは正反対な生活をしているように見える名士の息子ゴッドフリーが、実はこの作品のもう一人の主人公である。事件をきっかけに、目に見えぬ形でマーナーと深く関わることになる。マーナーのように全てを失った人の苦悩とは別種の、富が備わった人の葛藤がマーナーと比較される形で描写されてゆく。
エリオットが英文学の中でも至高の小説家とされるのは、あらゆる立場の人間の心情ドラマが説得力をもって文章に立ち現れるからだ。『サイラス・マーナー』には完璧な人は存在しない。一見良い人にどこか欠点があったり、いけすかない人に見どころがあったり。
完璧な良い人はいないながら、皆が各々の思う正しさに向き合おうとする。それが時には噛み合わないこともあるが、人と生きるとはこういうことではないだろうか。そうしたヒューマニズム、牧歌的な人の温かさと愛が、この小説には詰まっている。
エンディングまで読み進めれば、マーナーに拍手を送りたくなること必至だ。出会いと別れのこの季節、ぜひ手に取っていただきたい内容である。
書き手:小松貴海