著者:米原万里 出版社:角川文庫 出版年:2001年(文庫版2004年)
本書の著者はロシア語通訳、そして稀代のエッセイストとして知られる米原万里である。『ロシアは今日も荒れ模様』、『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』など時に痛快で心情に裏表のないエッセイを著した。本書『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は彼女がまだ少女だった頃の出来事を描いた1冊だ。
「マリ」こと米原万里はおよそ10歳から14歳までの4年強を当時ソヴィエト連邦下にあったチェコ=スロバキアの都市・プラハで過ごした。当時通っていた在プラハ・ソヴィエト学校で親しかった3人の友人―ギリシャ人のリッツァ、ルーマニアに出自を持つアーニャ、ユーゴスラビアから来たヤスミンカとの思い出が本書では描かれる。そして各エピソードの後半ではプラハから帰国し、社会人になって久しいマリが再び彼女たちの消息を追い、彼女たちやその家族との再会を果たすという構成である。
この回想記と捜索の困難さと再会の素晴らしさを理解するためにさらに留意しておきたいのが、本書のエピソードがあった時代背景である。3名の友人たちは旧ソヴィエト連邦下の国々の出自を持っている。本書の時代背景にはソヴィエト崩壊、そしてそれ以後頻発する民族紛争や内紛といった不安定な情勢がある。ソヴィエトの崩壊、その後の民族対立やそれに起因する激しい暴動、内戦は各地域間と勢力間での頻発は、音信の途絶えた友人たちの足取りを追うことをより難しくしていた。米原が彼女たちを懸命に探そうとしたのは単なる慕わしさや懐かしさだけでなく、「どうか無事に生き延びていてくれ」という彼女たちの安否の不確かさにも起因するものなのだ。幸いにしてこの作品に登場するマリの友人たちとその家族は一部を除いて元気な状態で再会することができているが、その切実さは内戦や紛争といった国家の動乱が人命や消息を容易く断ち切る恐ろしさがあるものなのだということに読者に肉薄させるのである。加えて、再会した3人の友人たち自身や家族の語られる再会までの日々に関するエピソードも決して安泰なものではない。彼女たちの少女期とその後を1つのエピソードとして読み通すことで、60年から90年代にかけて大きく揺れ動いた東中欧のマクロな歴史、そしてそこに生きた人々のミクロな生の歩みが鮮やかに語られる。
とりわけ、この回想録から響いるのはあらゆる対象、境界線だ。人々の語りには各々の信念、ナショナリズム、民族といった様々なアイデンティティの堅持と変化が表れている。その例が顕著に表れている部分としてアーニャの項を挙げる。学生時代、ルーマニアという国を愛し、祖国の風土、食べ物、歴史に誇りを何よりも誇りにしていたはずの彼女は(知ってか知らずか)家族によって差し向けられた進路や生活、そしておそらく彼女自身が奥底で抱えていた「とある後ろめたさ」によって少女期とはまるで別人の信念を持つようになる。少女期に鬱陶しいほどにルーマニアの、そしてルーマニア人としての誇りを抱いていたはずの彼女はマリと再会を果たした時にはイギリス留学を契機にイギリス人と結婚し、同国内に仕事を得て英語を話しながら暮らしていた。彼女は、ルーマニアと出自に基づいたアイデンティティを追求していった兄弟、そして少女期の自身とは正反対のナショナリズムを保有するようになり、「人種などいずれなくなり、人類は一つの文明語でコミュニケートできるようになる」と嘯くようになってしまっていた。
物語を辿ればより鮮明に伝わってくるが、アーニャの言葉は一見すると国境や人種を超えた調和を提唱しているようで、実際は歴史や民族のアイデンティティの否定と軽視へと帰結してしまっている。長い歴史の中で風土を生かして醸成された文化や言語は、いかなる時代と土壌に生きた人間からも切り離すことはできない。本書の舞台や重要なキーワードとなるソヴィエトという国もまた実に広大な支配圏の中に、一括りにされることで透明化されてきた歴史と文化がある。生存するため、そして明日に生きる意思を繋ぐために受け継がれてきた文化が否定されるべきでないことはその後の歴史を見ても明白だ。「人類が一つになる」ということは未だ人類にとっては乱暴で、それはただ「一つになる」という幻想に過ぎない。一つの人類の下には見えなくされてしまった個々の歴史が埋没していることに私たちは気づかなければならない。
自身のプライドと生存のためにアーニャは自己を形成していたアイデンティティという境界線を見えないふりをしてしまうのである。アーニャのスタンスに違和感を覚え、マリは次のようにアーニャに言葉を発する。それは歴史というものが重視されなければならない理由の一つを突いているのではないだろうか。
「(前略)…だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。それから完全に自由になることは不可能よ。そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない」(同書, 188頁)
書き手:上村麻里恵