著者:朝井リョウ 出版年:2023年(単行本版:2021年) 出版社:新潮社
「世の中には、人間が想像できないことのほうが圧倒的に多いのにね」p359
「多様性」という言葉を頻繁に耳にするようになったのはいつからだったか。人種、年齢、性別、価値観。みんな違って、みんないい。気がつけば、自分と異なる人を受け入れることは、現代を生きる人間にとって必要とされる道徳観になっていた。
では、人はその多様性をどこまで認めることができるのだろう。たとえば、自分の理解の範疇を大きく超え出た価値観や趣味嗜好をも、多様性の名のもとに受け入れられるだろうか。朝井リョウの長編小説『正欲』は、正しさそのものであるかのように思われている「多様性」という概念に、重く冷たい刃を突きつける。
物語では、一見交わることのない複数の人生が、それぞれの人物の視点によってかわるがわる語られていく。順風満帆なエリート人生が、息子が不登校になってしまったことで崩れていく検事の啓喜。男性に対する恐怖心を持ちながらも、初めて恋心が芽生えた大学生の八重子。だれにも言えない性的嗜好を抱えてひっそりと生きる契約社員の夏月。とある事件をきっかけに、それぞれの人生が交わることで、「多様性」という言葉の歪さが浮き彫りにされていく。
この物語に登場する人間は、三種類に大別することができる。まず、自分の価値観しか受け入れようとしない人間。「男は結婚して一人前」など、自分の思うステレオタイプの正しさを他者にも押し付けようとする。次に、多様性を尊重しようとする人間。マイノリティや他者が感じる痛みに理解を示し寄り添おうと努める。最後に、他者から理解してもらうことを諦めた人間。彼らは己の価値観や趣味嗜好が、“普通”の人が考える多様性の範疇から外れていることを自覚しており、受け入れてもらうことを諦めている。
このように三種類に分けてみると、最もわかりやすい悪は、自分が思う正しさを他者に押し付ける人間だ。作中でも嫌われ者として描かれている。しかし、他者から理解してもらうことを諦めた者にとって、実は一番恐ろしいのは、安易に多様性の尊重を掲げる人間だ。なぜなら、人は、自分の想像の範囲でしか他者を受け入れることができないから。想像の範囲から外れたものに関しては、最初から見えない、存在しない、ありえないことになってしまう。だから、マイノリティに寄り添おうとする人間の純粋な善意が、そのマイノリティからさえも外れた人間を、余計に傷つける。こうして、多様性の尊重こそが正義であると教えこまれた我々の価値観は、朝井リョウによって解体されてしまうのだ。
この小説の恐ろしいところは、読者が他者に受け入れてもらえない痛みにも共感できるように描いている点。人間関係のなかで他者に自分の思いをわかってもらうことを諦める、という経験をしたことのある人は多い。そのため、多様性を尊重したいという善意と、「どうせわかってもらえない」と諦めることの痛みの両方に共感することができてしまう。多様性の尊重が掲げられる現代社会において、本当の正しさとはなんなのか、考えずにはいられない。答えが見つかりそうもないこの問いに、著者はどのような答えを提示するのか、ぜひ読んで確かめてもらいたい。
書き手:伊東愛奈