BOOKLAB.書籍紹介 氷

著者:アンナ・カヴァン 出版社:筑摩書房 出版年:2015年

アンナ・カヴァンという作家がいた。不安定な心理状態、激しい痛みを伴う脊髄の疾患に冒された彼女の壮絶な人生は、常用していたヘロインとともに語られることが多い。生前ほとんど注目されることもなかったらしいが、今回紹介する、彼女の最後の長編作品『氷』は傑作と呼ばれ、今もなお読み継がれている。
彼女の作品はしばしば、スリップストリーム文学と分類される。聞き馴染みのない言葉だが、SF文学と比較するとわかりやすい。SFは近未来であるとか、宇宙という特定の世界そしてそこでおこる現象に対して、自然科学的アプローチで説明を付け加えながら、非現実的な世界を描く。しかしスリップストリームは、そういった説明はされない。つまり、ある現象が起きることに対しての説明はなく、ただ淡々と、非現実的なことが起こり続ける。その超現実的な描写はカフカと並び称されることが多く、実際彼女も強い影響を受けている。目の前の現象を、写真に現像して、ゆっくりと舐め回すかのように、詳らかに描写する文章は実にカフカらしい。ただカフカの作品は、主人公が酷い目に遭い、疲弊(そしてしばしば死んでしまう)しながらも、恋をしたり、彼に味方がついたりと、ささやかなれど希望が見え隠れする。もちろんその希望は順々に潰されてしまうのだが、全体を通して、淡い光が明滅し続けているようであり、喜劇的とも言える。その一面が作品を読み進める松明のように照らし続けている。しかしカヴァンの作品は、徹底的に閉鎖的で暗い。希望もほとんどなく、目の前の不思議な情景も、淡々とその不幸さを書き連ねているように思えてしまう。ただその冷たい絶望の中に、他の作品では味わえない確かな魅力がある。
この作品は男が車を運転しながらも、道に迷う場面から始まる。給油所の従業員が、この時期にこんなに寒くなることはなかったこと、これから訪れる厳寒期はどうなることだろうとこぼす。男はある少女に会うために、白銀の世界へ訪れた。道を進むと、突然この世のものとは思えない白い花が咲き競いはじめ、その生垣の奥に裸体の少女がヘッドライトに映し出される……。物語はやはり論理性に欠き、突然動き始め、停滞し、また理由なく動き始める。読み飛ばしてしまったのかと何度も前のページを振り返ってしまう。また氷の壁が男に突然迫り来る描写が何度かある。彼女が常用していたヘロインによる幻覚をどうしても想起してしまう。それほどに、不気味で現実離れした物語は不思議と美しい。形容詞難い魅力をもつ作品である。
さて、この文章を書いている今、私は修士論文を書き終え、三月までの春休みを利用して、東京に旅行に来ている。東京の冬は札幌のそれと違い、気温こそ低くはないが風が強いと聞いていて、防寒を怠りはしなかった。しかし近年稀に見る大寒波が日本全土を襲ったせいで、東京にも雪が降っていた。東京に住んでいる友人に連絡すると、「こんな寒いことなんて滅多にないけどね」と、心配の連絡が届いた。私はそれを見て、アンナ・カヴァンみたいだなと思い、たまたま寄った古本屋に『氷』があったので、購入し読み進めた。友人に返信することはついぞなかった。
これは本作に限った話ではないが、物語は現実の苦痛を軽減してくれる作用があると思う。悲しいこと苦しいことがあったとき、同じような世界を描写してくれるのを見ると、全て肩代わりとまで言わなくとも、共に背負ってくれているような、そんな温かみを感じる。その快復がどんな原理で行われているのかわからないけれど、それは確かにフィクションの作用であり、『氷』のような暗く、幻想的な文学によっても作用される。不意に訪れた寒波も、その作用によって、少しは気が休められる。その少しの積み重ねで、みんな、なんとかやっていってるのではないか、と最近は思う。
さて、今年の札幌の積雪量は観測史上最大とも呼ばれ、歩道の縁石代わりに、私より高い雪の壁が連なっていた。それを見て、私同様、アンナ・カヴァンだな、と思って、本書を読んでもいい。どんな理由であれ、この作品に触れてみて欲しい。

書き手:高橋龍二

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