BOOKLAB.書籍紹介 社会は「私」をどうかたちづくるのか

著者:牧野智和 出版社:筑摩書房 出版年:2025年

 「自分」というものの存在を認めることなしに生きていくことは簡単ではない。中世、小規模な国や農村で一生を過ごす人々にとって、規範、道徳、自身の役割は全て所属するコミュニティの伝統が作り上げていた。それに従うことで人間は成長し、老い、一生を終えていったのである。そこでは自分にとっての「らしさ」や「最良の選択」を獲得するための悩みはさほど深刻なものではなかったようだ。

 一方、現代の私たちの前には法という規範はあるものの、道徳は誰もが宗教や伝統から同じように学んだり、季節のあらゆる仕事を親から子へ口伝えしたりすることは昔ほど簡単なことではなくなった。加えて、個人の役割も現代では複数化されている。あらゆる選択肢によって自身の役割を選ぶことができるようになった。人々はその自由を受け入れる一方、「私とは何なのか?」という問いに悩まされるようになった。「私」というものは社会や他者との関係によって構築される。時代や地域、文化、慣習によって目指す「私」には変化もあるだろう。では社会のどんな部分や考え方によって人は「私」を作ってきたのだろうか。

 筆者の牧野は社会学者である。牧野は「自己」を人々がどのように形成するのかについて関心を抱いてきた。そこでアプローチしたのが巷に溢れる「自己啓発本」だった。『自己啓発の時代:「自己」の文化社会学的探究』(勁草書房、2012)で牧野は自己啓発本で唱えられている自己実現の内容をリサーチした。ベストセラー、就職活動を行っている学生向け、女性向け、男性向けといった対象者も必要とされる状況も異なる4種類の自己啓発本の内容を読み進めると次のようなことが明らかになった。90年代以前、それぞれ書籍が示す求める自己実現のための方法は抽象的で一般的なアドバイスにとどまるものであったという。しかし、90年代を境にそれらの本が一斉に読者の「私らしさ」や「なりたい私」というものに対して、内面にアプローチして変化を技法として伝授するようになったのである。牧野は自己啓発本のこうした変化を「内面の技術対象化」と言い表した。その上で、90年代以降社会的に「私らしさ」や「なりたい私」を方法論的に攻略・実現することが可能であるとされ、自己へのアプローチが操作することができるリアルなものとして感じられるようになったのだと分析したのである。

 本書は牧野、そして多くの社会学者が注目してきた「自己」に関するアプローチを概観することができる。1章では、現代の若者にとって「私」というものがデータではどのように表れているのかを、2章では本書の軸となる「社会との関わりで作られる私」という考えの歴史を、3章ではさらに人間の部分に分け入ってアイデンティティや感情と社会の関係を「現代的自己論」から、最後の4章ではさらに感情や個々の言葉を歴史として捉えることについて論じている。牧野は「自己」に対する言説をより幅広いスパンで見直し、中高生だけでなく、社会人や大学生、研究者にも読み応えのある書籍として練り上げた。ある程度平易さを保っているものの、十分骨太な構成となっており、初めて社会学を学ぶための本としてはやや難易度の高い内容とも言える。仮に言うならこの本は社会学や社会を覗くための地図帳のようなものではないだろうか。行ったことのない場所の地図を開くとき、その場所の情景や空気を想像することが難しくても地図を見ることで距離や位置付けは把握できる。本書はその要領で社会と「私」との関係についてこれまでどのような視点で研究が進められてきたのかを示しているとも言える。社会に関する言説を示し、より深い部分まで向かうためのナビという言い方もできるだろう。

 この著者が論理の側から社会を紐解くアプローチをしているという点も重要だ。社会学に詳しい人、社会学者の本を読んだことのある人ならこんな問いも浮かぶかもしれない。
「フィールドワーク調査の話があまり出てこないな?」「理論で社会がわかるのだろうか?」―社会学には研究者が特定の集団や対象にインタビューやアンケートを取る手法、また研究者自身が対象のコミュニティに直接関わることによって分析を進めるという手法があり、研究者によってはこうしたフィールドワークを重視して研究を進める。一方、牧野はより理論的な部分から社会の分析を行なっている。4章では人々の感情やその語りという側面に注目しているが、あくまで牧野が社会を紐解くための手がかりにしているのはインタビューや具体的なコミュニティへの参画というよりも、長い時間の中で蓄積された書籍やデータ、そして先人研究者たちの言説である。
 
 重要なのは、論理には論理の、実地には実地の特色や得意なことがあるという点だ。前者は言説の分析などのテキストや理論をベースとして社会をより長い時代や広い地域でとらえるものであり、より普遍性をもった概念へと迫ることができる。後者は特定のコミュニティに研究者自身が入り込み、そこにいる人々の言葉を聞き取り、環境を知ることでより具体的な状況を描き出し、特定の領域に対するギャップを軽減して記録すること、分析することが可能になる。社会学は巨視的な社会の歴史の把握、そして個々の物語の双方にアプローチする手法をそれぞれ確立して共生することで発展してきたのだ。

 とはいえ、理論から分析することは一見骨が折れ、その利点に即効性は感じられないように思われる。それでも理論を知ることは応用やイレギュラーだらけの世界を進むための親切な伴奏者になってくれる。例えば私たちは個人の言葉やケースを会話やネットなどさまざまなところで見聞きすることができるようになった。ならばその骨子となっているものに私たちはどれだけ関心を向けられているだろうか。理論、そこに伴奏する歴史を知り、探究する意味とはまさに長いスパンを念頭に入れた上で今そこにある社会を見つめる目を手にいれることができる。

 世界のスピードにもしめまいを覚えたならば、少しだけ歴史になった声に耳を傾けてみよう。古くて新しい言葉はきっとあなたを支えてくれる。

書き手:上村麻里恵

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