著者:穂村弘 出版社:中央公論新社 出版年:2023年
歌人・穂村弘は、1990年に『シンジケート』(沖積社)でデビュー。その後、現代短歌を牽引する存在として、さまざまなメディアで活躍している。『ダ・ヴィンチ』(KADOKAWA)の人気連載「短歌ください」では15年以上に渡り数々の名歌を世に送り出しており、評論家としての顔も有名だ。
加えてもう一つ、エッセイストという側面は、穂村を語るうえで外すことができない。2002年に刊行された『世界音痴』(小学館)以来、10冊以上のエッセイ集を世に送り出している。今回紹介する『蛸足ノート』も、読売新聞の夕刊で連載中のエッセイを書籍化したものだ。連載が始まった2017年4月から2023年9月に掲載された作品まで、計146篇が収録されている。
本文中で著者が語るには、「蛸の足みたいにあちこちに心と筆を伸ばして書いてゆきたい」(p9)という想いがタイトルに込められている。まさにその思惑通り、読者の思いもよらない方向へ、にゅるりと話が進んでいくのが本書の特徴だ。著者の身に起きたなんてことのない出来事から始まった話が、あっという間に「穂村弘ワールド」とでも名付けたくなるような、不思議な世界へと変貌する。たとえば、「最近風邪をひいていない」と誰かに自慢した途端風邪をひいてしまうという現象について述べた話では、神が人間が風邪をひく頻度を調節しているのだと述べ、更には天使の好きな食べ物にまで空想が及ぶ。読者が広く共感できるような話題に、読者が全く思いも寄らなかった空想を足した、独自の世界が広がっているのだ。夕刊での連載ということでどの話も見開き1ページに収まる長さなのだが、たった2、30行程度の文章のなかで無限の広がりを見せる様は、エッセイというよりショートショートを読んでいるかのようだ。
こうした不思議な話が展開される一方で、一冊を通して著者の人柄が手に取るように伝わってくるという特徴を両立させているのが、本書のエッセイとしての良さである。自分が犯した小さな失敗や、避けられない老い、そういった明るくない話題も謙虚に、かつ茶目っ気を交えて綴られた文書からは、著者の魅力が存分に伝わってくる。穂村弘についてよく知らないという人は、この本を通してまっさらな状態から穂村弘像を作ることができてラッキーだろう。その穂村像に魅了されたあとは、ぜひ答え合わせを兼ねてほかの著作や出演番組を確認してみてほしい。
書き手:伊東愛奈