高校再編―5校が1校 繰り返された間口減と統合
平成期は地元の高校が一気に減少した時代でした。平成初めには、旧名寄市に名寄、名寄工業、名寄農業、名寄恵陵の4高校、風連町には風連高校がありましたが、現在は、名寄高と3年生だけが在籍する名寄産業高のみで、来春には名寄高1校になります。30年前、この状況は想像しなかったように思います。
平成元年、風連以北中川までの上川第5学区9校の入学定員は1040人でした。定時制課程以外ではほぼ定員を満たし、全日制課程の平均倍率は0.93でした。
この後は定員割れを起こす学校、学科が多く見られるようになります。北海道教育委員会は公立高等学校配置計画として間口減案を発表してきました。各校は部活動、資格取得などに特色を打ち出し、自校の間口を守ろうとしました。高校の最小規模を1学年2学級以上とする道教委方針によれば、入学者が1学級分の定員を超さなければ閉校に直結し、1校しか高校のない町村にとっては大きな問題です。旧名寄市には1学年3学級以上の4校があったことから、平成初期にはじわじわと各校の間口を減らして対応してきたものの、やがてそれだけでは対応できない時期がやってきました。
平成12年、名寄工業高と名寄恵陵高が統合されました。名寄工業は昭和50年に名寄高から分離独立し、電子機械、電気、建築の3学科を持つ高校でした。名寄恵陵は大正9年開校の町立名寄女子職業学校からの歴史があり、市立の女子高校として名寄の女子教育の象徴的な存在でした。普通科2、生活文化科1の3間口がありました。統合により、2間口減の4間口、校舎は元の名寄工業となりました。名寄光凌高という名称、普通科と生活文化科の設置という点に名寄恵陵の名残をとどめました。
しかし、この再編は始まりに過ぎず、名寄光凌は開校からわずか9年後の21年には名寄農業高との統合により名寄産業高に再々編されました。この統合では、名寄光凌を母体としながら、名寄農業の校舎、農場などを活用する2キャンパス制がとられました。学科は酪農科学、生活文化、電子機械、建築システムの4学科各1間口。酪農科学科の生徒は、授業によってバスで名農キャンパスに通う学校生活となりました。
17年から上川第5学区は同第4学区(和寒以北士別)と統合の上川北学区(和寒以北中川)となっています。学区内の同系学科や同通学圏校の間での淘汰が進み、17年に名寄光凌の普通科、20年に風連が募集を停止しています。
風連は、昭和28年に町立で開校、39年に道立となった町内唯一の高校でした。平成に入ると普通科2間口に定員割れの状況が目立つようになり、存続のために町を挙げて支援しよう、と8年から1年生のオーストラリア研修旅行を始めましたが、16年から1間口となっていました。
令和元年の春、名寄高校でこれまでにない事態が起こりました。4間口160人を維持してきた入学定員に対して出願者100人という大幅な定員割れが生じて、やむなく3学級の編成となったのです。市内の高校は名寄と名寄産業の2校になっていました。翌2年は名寄産業が1間口減じたにもかかわらず、両校全学科で定員割れでした。この年の市内中学卒業生は207人、名寄と名寄産業の1学年は合わせて151人、このうち名寄市内からは113人でした。周辺町村から名寄市内校へ進学する以上に名寄市内から学区外に進学する生徒数が多い状況が生じていたのです。高校以降の進路などを考えて都市部の高校を目指す受験生が増えていました。
市内で2高校が存続するのは困難との見方が広がり、名寄市は検討会議を経て道教委へ両校統合へ要望書を提出し、5年度の名寄、名寄産業統合による新設校設置が決定しました。新たな名寄高校は、普通科4学級、情報技術1学級(入学定員合計200人)です。名寄市内の中学卒業生数は10年頃まで200人前後で推移すると予測され、流失を食い止め、近隣から進学者が増えるよう、4年に通学に便利なJR名寄高校駅を設置し、単位制、コミュニティースクールなどの新たなカラーを打ち出しています。
6年の上川北学区の全日制は6校、入学定員520人、平均倍率0.65で、名寄高校の入学生は137人(普通科124人、情報技術科13人)でした。地域の中学生、子育て家庭はどんな高校を望み、進路にどんな選択肢を確保できるのか、そこへ応えていくことが高校の存続につながるのではないでしょうか。
小中高校の記念誌、卒業アルバムは名寄市史編さん室で史料として保存しています。閉校した学校を含め、お持ちのものを提供してくださる方はご連絡ください。
(宗片)
問い合わせ:市史編さん室(01654-3-2585 直通)