盆地からのパノラマ景観~山と丘と
名寄市のヒトの歴史も、自然との関わりなしでは考えられませんので、自然の話から話を進めます。まず名寄を自然環境から言い表すとなんでしょうか?私の想いは「多雪寒冷」と「盆地」です。前者は北国博物館の展示をご覧いただければ良いので、今回は「盆地から眺めるパノラマ景観」を取り上げます。
盆地とは山に囲まれたすり鉢状の地形です。北海道北部には北から、名寄盆地、上川盆地、富良野盆地が連なり、中央盆地列といわれます。名寄盆地の成り立ちは東と西の岩盤の南北方向のずれによる構造盆地で、細長く、東西の山地の地質が異なります。東は1300万年前に噴出したピヤシリ山、九度山、士風山などの溶岩の裾野の広い山々。西は1億年前に堆積した海の底がせり上がった直線的な山稜の雨竜山脈です。山並みができた後に、雨水と雪氷が長い年月をかけて山を削り、その後の800万年ほど前の大洪水的な土砂が盆地底に積り、智恵文や忠烈布の丘陵となり、その土砂を400万年ほどかけて天塩川の支流が洗い流して平地を作り、ほぼ今日の景観となりました。1億年の間を10行ほどで書いてしまいましたが、この間にヒトは出てきません。
盆地にヒトが登場するのは1万5千年前で、地形はあまり変わりませんが氷河期の末期で、今のサハリン北部ぐらいの気候でした。アジア大陸の沿海州から陸橋となった間宮、宗谷海峡を越え南下した先史人を迎えたのは、平地は今よりも低いですが、川、川岸、丘陵が東西の山裾に連なる地形です。実は、この川から山に連なる変化に富んだ地形がヒトの生活と産業の歴史の中にも反映されていきます。
その後、1万2千年間の縄文時代を経て気候は温暖となり、日本海に暖流が流れ込み、降水量も増え植生も豊かになりました。先史の生活を引き継いだ先住のアイヌはまさに、この盆地を舞台に四季豊かな山・川の生態系を生かし・生かされた営みを川筋に展開しました。それでは、明治期の開拓者には名寄盆地はどう映ったでしょうか。東北、北陸出身者が多かったようですが、郷里の箱庭的な「深鉢盆地」ではなく、丸みを帯びた山に囲まれた「浅鉢盆地」に見えたかもしれません。もっとも、入植地は木々が生い茂り、山並みが見えたのはしばらく経ってからとの話もあります。明治末から大正初めの開拓者は平地部に入地しましたが、大正中頃から戦後直後にかけて入植した人たちは、丘陵や沢沿いにしか入植地がなかったといわれます。傾斜地や石が多い農耕不適地で開拓農民の必死な開墾と営農努力も限界となり、昭和40年代には離農が相次ぎました。残された開墾地には将来収入が見込まれるカラマツが植林されることが多く、現在の丘陵地、山裾のカラマツ植林地景観はこうして生まれました。
丘陵・山裾にはもう一つの話があります。開墾地に初めに作付された作物は米以外の穀物が中心で、大正期後半は第一次世界大戦の影響で穀物価格が高くなり、豆類、デンプン加工用イモ、菜種など投機的作物が競って作られました。蚊取り線香原料の除虫菊もその一つで、気候条件や傾斜地にも生育することから大正10年頃から作付けが急増しました。昭和10年頃には世界需要の9割が日本産となり、当時「菊の宗谷線」といわれるほど名寄盆地の丘陵地は白い花で埋め尽くされました。名寄駐屯地の西の丘にあったスキー場に菊山、和寒には菊野、美深には菊丘などの地名が残され、「名寄盆地には2回雪が降る」と言われました。
現在は入植以来120年を経て、平地に水田、丘陵地に畑、山裾に牧草地とおおむね地形に沿った農業が営まれています。なだらかな丘陵に除虫菊の花が咲くことはなくなりましたが、代わってヒマワリやジャガイモの花が咲き、小麦や豆類、スイートコーンなどの輪作作物と背後のカラマツ林が名寄盆地パノラマ景観といえそうです。
問い合わせ:市史編さん室(01654-3-2585 直通)