自衛隊イラク派遣から20年 番外編

フォーカス番外編
フォーカス第4部は「自衛隊イラク派遣から20年」と題して、6月中旬から7月上旬にかけて全9回掲載した。
7月13日には、第1次イラク復興支援群の群長を務めた番匠幸一郎元第3普通科連隊長兼名寄駐屯地司令(元西部方面総監)の記念講演会が開かれ、派遣された隊員を中心に多くの方が拝聴した。
今回、番匠様にお願いして、記念講演会で語った派遣時の思い出などについて寄稿いただいたので、番外編として紹介する。


自衛隊イラク派遣から20年
名寄の皆様への感謝と敬意をこめて
第1次イラク復興支援群長(第28代第3普通科連隊長) 番匠幸一郎

国の内外から大きな注目を集めた自衛隊のイラク派遣から、今年で20年になる。イラク南東部サマーワでの務めを果たし全員が無事帰国できたのは、名寄の皆様のご支援とご協力のおかげであり、その御恩は決して忘れることはできない。
なぜ最初に名寄が指名されたのか
戦争直後の混乱と困窮にあるイラク国民を助ける人道復興支援活動のさきがけとして、名寄の私たちが主力として選ばれたのは一体何故だったのか。それは、戦後初の戦地派遣とも言われた国家的大事業に、自衛隊の代表として最初に現地に赴き困難な任務を完遂できるのは、名寄を中心とする朔北の部隊・隊員だということが広く認識されていたからだと思う。大変名誉なことであると同時に、身の引き締まる緊張感ある任務でもあった。
名寄とイラクは対極だった
市民の皆様と駐屯地の同僚たちに見送られながら名寄を出発した平成16(2004)年2月の朝は凍晴で気温はマイナス24℃だった。
千歳から政府専用機で8000㎞を移動し到着したクウエートはプラス40℃。1日で64℃の気温差のある所に展開することとなった。それから3カ月余りの間、日中の最高気温が50℃を超える日もあったサマーワで活動を続けた。任務を終えて旭川空港に降り立った時、懐かしい道北の大地は五月雨に濡れた鮮やかな新緑に萌えていた。つい先ほどまで、全てが黄土色の乾燥した砂漠地帯にいた我々にとって、美しく豊かで平和な日本は、まさにイラクと対極にあるような気がした。素晴らしい祖国、故郷名寄に帰国できたことの幸せを、派遣隊員たちは皆実感したと思う。
千人旗と祈りの力
イラクへの出発の直前、自衛隊協力婦人会の吉田美枝子会長から「旗を準備したので贈呈したい」との連絡を頂いた。そこで手渡されたのは本物の「千人針」だった。名寄のご婦人方が、我々の無事を祈って「祈任務遂行無事帰還」の文字を一針ずつ刺してくださったのだ。派遣間、宿営地の周辺に砲弾を撃ち込まれるような事案もあったが、隊員の誰一人として病気も怪我もなく全員が無事に帰国できたのは、名寄の皆様の「祈りの力」があったからと今でも感謝している。
全国へ広がった「名寄方式」
イラク派遣に際して、名寄市、商工会議所、自衛隊協力会を中心に実施して頂いた様々な支援活動は、イラクの市民への「こいのぼり」の寄贈、町中に広がった黄色いハンカチ運動、留守家族への激励など、数えきれないほど多くの温かく親身の内容だった。我々の後に派遣された第10次隊までの部隊や自治体・自衛隊協力団体などが、こぞって名寄の支援内容と体制を取り入れ、当時これが「名寄方式」と言われて全国で有名になった。名寄の皆様が示してくださった愛情と共感が、イラク派遣のみならずその後の自衛隊の活動を支える大きな柱になったことは特筆されるべきと思う。
現在、世界ではウクライナ戦争や中東危機など様々な緊張が顕在化し、我が国も、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境のただ中にあると言われる。
イラク派遣を通じ、経験し学んだことは、決して過去のものではなく、現在も未来にも貴重な教訓を与えてくれているように思う。
特に、名寄の皆様の愛情が如何に隊員・家族を勇気づけてくださったかを思う時、これからも日本一を誇る自衛隊と地域の絆が益々発展されることを切に願いたい。本当に有難うございました。