④派遣された現役・OB隊員の声3
本郷正基さん(45)は、朝日町(現士別市朝日町)の出身。
1997年3月に真駒内駐屯地の前期教育隊に入隊後、同年6月に名寄駐屯地の第3普通科連隊(当時、以下「当時」を省略)対戦車中隊に配属。
イラク派遣時は、同中隊の3曹。イラクでは、警備中隊の警備陸曹として、主に警備や要人警護などの任に当たった。
2003年10月から、第2師団で事前訓練を受け、イラクには、本隊第1波の一員として04年2月21日に出発し、5月の帰国まで3カ月間、任務を遂行した。
事前訓練中から、多少の不安はあったものの、常に行動を共にしていた上司や同僚と信頼関係を築くことができ、「不安よりも、国民を代表して任務に就く使命感と責任感の方が強かった」と話す。
また、現地では、歓迎ムードの地域もあれば、石を投げられたり、罵声を浴びせられたりと、「嫌な地域もあった」。これらは、自衛隊の任務が一つ一つを積み上げて確実に実行していく姿と、早く復興してほしいとの現地住民の思いからずれが生じた行動であったと思い、群長の方針に基づき、自分たちなりに地域住民に寄り添った行動ができたのではないかと振り返る。
派遣から20年が経過した現在、記憶も薄れていっているが、「当時の強い使命感と責任感を忘れることなく、訓練に臨み、この経験を後輩に伝えていきたい」と話す。
帰国後は、第2後方支援連隊第2整備大隊第1普通科直接支援中隊などを経て、現在は、同連隊第2整備大隊即応機動直接支援中隊の1曹。
子ども3人と妻の5人家族。子どもの野球観戦が一番楽しいと笑顔で話す。
水口賢一さん(56)は、宗谷管内枝幸町の出身。
1986年3月に陸上自衛隊に入隊。名寄駐屯地で前後期の教育課程を修了後、第3普通科連隊に配属。同連隊の中で異動し、イラク派遣時は、第3中隊の1曹。
事前訓練を受け、イラクには本隊第1波の一員として2004年2月21日に出発し、5月下旬の帰国まで3カ月、警備小隊の警備組長として任務に当たった。
イラク派遣は、自ら熱望して決定。「今までの訓練は、砲弾など相手との距離が長かったが、派遣前の訓練は、距離が短く、初めてのことで手探りだった」と振り返る。
警備業務は、宿営地警備、要人警護、警護などがある。
派遣後間もない3月上旬には、「RPG(ロケット弾発射器)で宿営地を狙っている」とのテロ情報があり、また、宿営地の近郊に迫撃弾も着弾。警備態勢を強化するなど、緊張感が高まった。
派遣期間中は、日記をつけていたこともあり、帰国後、共同通信の取材を受け、中国新聞など西日本の新聞3紙に掲載された。
当時を振り返り、「クエート国境を超え、イラクに入った時の戦争あとの残骸,や黄砂一色などの全く違った光景、世界、子どもたちの印象などが強く残っている」と述べ、改めて「日本という国は、素晴らしい国だ」と、実感したと話す。
帰国後は、同第3中隊、旭川地方協力本部枝幸地域事務所勤務などを経て、16年6月に本部管理中隊の准尉で早期退職した。
退職後は、「屋台鳥まる」を経営し、焼き鳥、リンゴ飴、ランチなどを、自宅とキッチンカーで営業している。
子どもは独立し、妻と母の3人暮らし。
浜口朗伸さん(65)は大阪府の出身。
1977年3月に陸上自衛隊入隊。滋賀県大津駐屯地で前期、名寄駐屯地で後期の教育課程を修了後、同年9月に第3普通科連隊本管中隊情報小隊に配属。
イラク派遣時は、同連隊の本管中隊の曹長。
2003年10月からの事前訓練期間中は、色々なケースを想定しての訓練であったので「不安もよぎった」と話し、04年2月3日に先発隊のメンバーとして出発した。
イラクでは、警備中隊の警備小隊班長として主に警備業務を担当。特に、第1派の本隊が到着するまでは、警備を含めて色々な業務を担った。
クエートからイラクに入った国境付近で出会った子ども達が、食べ物を求めて車列に群がってきた光景を見て、「できることを精一杯やりとげ、イラクの平和と未来に貢献したいと強く思った」と話す。
派遣期間中は、「GNN(義理、人情、浪花節)」「ABC(当たり前のことを、ぼーっとしないで、ちゃんとやる)」のスローガンを頭に入れ、任務に当たった。
「『GNN』は、日本独特の情に厚い精神的な文化を前面に出すことで、現地の人々に我々の活動を理解してもらえること」で、「『ABC』は、能力以上のことをやるのではなく、自分たちのできることをしっかりやること」の趣旨で、番匠群長の支援方針であるこのスローガンを、「現在も思い出だしながら仕事をしている」と語る。
派遣後は、広報班長などを経て12年12月に同連隊の本部付の2尉で退職。13年4月から名寄市立総合病院の総務課で事務当直の仕事をしている。
子どもは独立して妻と2人暮らし。趣味は魚釣り。
(松島)