自衛隊イラク派遣から20年 7

7 派遣時の上級部隊長の声

名寄駐屯地から100人強の隊員が派遣された第1次復興支援群の上級部隊である当時の第2師団長、北部方面総監部幕僚長に、イラク派遣当時の思い出などを寄稿いただいた。

「イラク派遣の思いで」
元第2師団長 河野芳久
20年という期間はかなり長いが、イラク派遣に関しては、昨日の出来事のように感じてしまう。それだけ、自衛隊史に残る重い出来事だった。
2003(平成15)年の夏頃、イラクに派遣されるとしたら北部方面隊から派遣されるだろうという認識が示された。さらに早ければ、9月にもということだったと思う。結果的には、翌年の2月から本隊の派遣が始まったが、本作戦は派遣準備期間が短いという特徴があり、緊迫した米軍の現地状況から防衛的な戦闘行動も生起することもありうると考えた。
法律上は非戦闘地域における各種活動であるが、派遣部隊にとっては、国土防衛作戦の延長線上の「作戦」に他ならないというのが私の認識である。
このことから、次のことを要望した。上級部隊に対しては、第2師団単独で1次隊を編成させて欲しい、派遣部隊に対しては、「部隊の団結」と「射撃訓練」を重視することだった。
北部方面隊のオールスターを揃えるのではなく、日頃から一緒に訓練している部隊の隊員同士に磨きをかけて送り出すという考えである。射撃訓練は軍隊にとっては極めて重要で、部隊の生存性を高めると同時に隊員個人に自信を与えることができる。
同年の秋頃上級部隊から編成が示され要員選考を行うことになった。そこで、日頃から信頼している番匠幸一郎連隊長を復興支援群長とすることにした。選考にあたって重要なことは、希望を取って決めるのではなく、指揮官等が必要な部隊・隊員を指名することだと考えていた。それが軍隊の本質であり、国土防衛作戦であれば必ずそうなると思ったからである。したがって選考は、給水等の機能活動ごとの部隊は専門部隊になるが、その他の部隊の骨格は連隊長に任せることにした。早速、番匠連隊長から副群長に第2偵察隊長の藤原修2佐を指名したいという申し出を受けたのである。正直なところ驚いたが、連隊長とは平素から気心が知れた間柄であり有能な人物であるので快諾し、徐々に名寄駐屯地の隊員を主体とした派遣部隊が出来上がっていった。
野球でいえば、私の立場は球団社長であり、番匠監督、藤原ヘッドコーチで遠征試合に臨んだともいえる。そして、当時の名寄市長をはじめ、各協力団体、市民の皆様の献身的な声援を受け、選手達は練習成果以上の力を出して圧勝し帰国することができた。このように思うとき、つい20年前のイラク派遣は、皆様方と一緒に作戦したのだという思いに浸るのは、私だけであろうか。

「名寄自衛隊イラク復興支援・派遣20年に寄せて」
元陸上幕僚長・元北部方面総監部幕僚長 火箱芳文

はじめに
名寄の自衛隊がイラクへ派遣されてから20年、心からお祝い申し上げます。時の流れに感慨深さを感じています。2003年3月北部方面総監部幕僚長として着任した直後から北方のイラク派遣に関わり、しかも連隊長として勤務した名寄の部隊が、イラクに派遣され、危険な地域で過酷な任務を見事に完遂し、1名の犠牲者もなく無事帰国したこと、この時ほど嬉しく後輩たちを誇らしく感じたことはありません。 
当時米国はイラクの「大量破壊兵器の隠匿疑惑」を払拭するためイラク戦争を開始しました。僅か一か月余りでフセイン政権は倒壊しましたが、イラク国内の治安は不安定なままで推移していました。
自衛隊派遣への経緯
小泉首相は、米国のイラク戦争開始直後にこの戦争に対する支持を表明しましたが、政府は、水面下で自衛隊の派遣を含め様々な施策を検討していたと思われる。
政府の動きなど知る由もなく着任したが、今年度の北部方面隊の隊務運営の予定を掌握したところ、気にかかることがあった。それは国際緊急援助隊の待機任務が当てられていたことだった。戦争の終結後、自衛隊を何らかの形で派遣することになるのでは。その場合北方が担うのでは。同期の宗像陸幕防衛部長に電話で尋ねたところ、私の勘は当たり「まだ極秘で検討中。可能性は大。その時は北方が担任予定。」連休明けに非公式に説明に来るとのこと。連休明けの休日、宗像防衛部長が私服で来札、官舎で会う。検討中のイラク派遣活動(仮称)の説明を受けるが不確定要素が多すぎる検討であった。ただ派遣時期早くて年内、派遣規模は最大で数千人規模から数百人規模まで、派遣期間は1個部隊約半年、北方で1次隊、2次隊を担任、事後は他方面隊持ち回りとのこと。この情報を基に密かに北方として独自に検討・準備を進めることにした。先ず1次隊を2師団、2次隊を11師団担任とする。各師団長には直接、派遣部隊の選定、派遣要員の候補者の選考を、また補給処長には携行装備品、資材等を見積らせ、車両等の整備、塗装の予定を計画するようお願いした。 
イラク派遣が世間一般に話題になり特措法の議論が始まってから、野党を含むマスコミは「自衛隊派遣は海外派兵、憲法違反」派遣反対キャンペーンを張っていた。これに政府は 「イラクは停戦している。危険地域ではない。復興の為に派遣する」と特措法を成立させ派遣しようとしていた。北方は政府・陸幕の指示に基づき派遣するよう具体的に諸準備を進めて行った。ただ政府の見解とは反対にイラクは治安が不安定というより、むしろ危険であると認識していた。危険な地域で自らの安全を確保して諸活動できるのは自衛隊しかできない。国会での矛盾した特措法の議論を注視しながら、方面隊として取り組む最大の関心事は、危険な地域、状況に遭遇した部隊・隊員の安全の確保であった。編成案が逐次示されてきたが、警備部隊の少なさが気掛かりであった。また事前の徹底した警備訓練の必要性を痛感していた。そこで私は北方の幕僚長として意を決し、警備部隊の増強と1次隊の支援群長は、ほぼ内定していた某後方支援連隊長でなく、第3普通科連隊長を充てるべきと強く総監、師団長に進言した。難産の末第1次復興支援群の指揮を番匠幸一郎第3普通科連隊長が執ることになった。あの時のあの進言は間違いなかったと自負している。
派遣準備から派遣へ
2師団は第1次復興支援群要員を集め訓練を開始した。演習場に模擬宿営地を実設、宿営地警備訓練、給水、施設活動、衛生活動現場への移動中及び活動実施間の警備行動など実践的に演練していった。訓練状況を視察し、番匠1佐から直接要望事項を聴収した。警備部隊には北方から今まで経験したことがない程多数の実弾を配当し、実弾射撃訓練を徹底するよう配慮した。更に陸幕と連携し、装甲車の改修、防弾板の取り付け、小銃の改造、新負い紐、新拳銃ホルダーの導入、更に土嚢等の貫通試験、鉄条網等の耐久試験など隊員の不安を除き、自信をもって活動できる基盤付与に努めた。
04年2月1日、小泉総理を旭川駐屯地に迎えて、第1次イラク復興支援群の編成完結式、隊旗授与式が実施された。番匠群長以下の自信に満ち溢れた溌剌颯爽(はつらつさっそう)とした姿を見て必ずや任務を完遂できると確信した。その半年後任務を見事に完遂し、元気に帰国した隊員の姿を見て熱いものが込みあげてきた。よくぞ無事で…。
最後にイラク派遣反対の国民の声がある一方、故吉田美枝子名寄自衛隊協力婦人会長を始め名寄の市民の皆様方から、千人針や黄色のハンカチ運動など名寄市を上げて隊員の無事任務完遂を祈念しての温かい声援を賜ったこと、心からの敬意と感謝を申し上げたい。了
(松島)