自衛隊イラク派遣から20年 3

③派遣された現役・OB隊員の声2

佐藤良寛さん(55)は、宗谷管内豊富町の出身。
1987年4月に真駒内駐屯地の前期教育隊に入隊後、後期教育隊を遠軽駐屯地で受け、その後、同駐屯地に11年勤務。東千歳駐屯地を経て、2001年8月に名寄駐屯地の第3普通科連隊(当時、以下「当時」を省略)対戦車中隊に配属。
イラク派遣時は、同中隊の1曹。イラクでは、警備中隊の小隊警備組長として、輸送品の護衛、要人警護、駐屯地警備、警備施設の維持補修などの任に当たった。
事前訓練を受け、イラクには、本隊第2波の一員として04年3月13日に出発し、5月の帰国まで3カ月弱、任務を遂行した。
佐藤さんは、遠軽駐屯地に配属されていた際、94年のルワンダ難民支援国際平和協力隊の一員としてアフリカのザイール(当時)に約3カ月間派遣されている。難民のために、防疫活動、給排水設備活動などさまざまな支援活動を実施。「初めての海外派遣で、治安も悪く大変苦労した」と話す。
イラク派遣当時は、「一人娘が小学校入学前。ランドセルを背負った写真を携行して毎日眺めていた」と振り返る。
イラク派遣から20年、ルワンダ難民支援から30年が経過。2回の海外派遣を経験し、「両方大変な思いをしたが、初めての海外派遣であったため、ルワンダの方が大変だった」と話す。
帰国後は、対戦車中隊に戻り、本部管理中隊などを経て、現在、業務隊総務科の隊本部班長で1尉。
年末で退職を迎えるため、秋頃から就活を予定している。
子どもは1人で妻との3人暮らし。趣味は、バイクとキャンプ。

村上英樹さん(54)は、士別市の出身。
1988年4月に陸上自衛隊に入隊。真駒内駐屯地で前期、上富良野駐屯地で後期の教育課程を修了後、同年9月に名寄駐屯地の第2偵察隊に配属。
イラク派遣時は、同隊の2曹で、イラクでは、第1次復興支援群本部管理中隊情報班の陸曹として情報収集などの任に当たった。
第2師団での事前訓練も、レンジャーを経験したこともあり、「やりがいがあって新鮮に感じた」と話す。
イラクには、本隊の第1派として2004年2月21日に出発。
同隊の情報班は、名寄駐屯地第2偵察隊の6人で構成。番匠群長、佐藤正久隊長(先遣隊)の前進経路、サマーワの活動地域(地形や道路状況など)、物資輸送経路などの偵察業務、宿営地周辺の巡察(見回り)など、偵察と情報収集が主な任務で、「日頃の訓練が役立った」と話す。
現地では、子ども達などから「ウオーター、ウオーター(水をくれ)」と叫ばれたこと、日本の宿営地を支えてくれていたオランダ軍の兵士が殉職し、同僚隊員がラッパで追悼演奏したことなどが思い出されると言い、「日本人、自衛隊で良かった」と述べる。
「イラクの人たちと一緒に汗をかき、同じ目線で復興に取り組めた。この姿勢がイラクの人々に届いたのではないか」と振り返る。
帰国後も同隊に戻り、現在1尉。
子ども3人のうち、3女は、名寄駐屯地の第3即応機動連隊第4普通科中隊で勤務。2女も自衛官をしていたこともあり、「親と同じ職業を選んでくれてうれしい」と笑顔で話す。
現在は妻と2人暮らし。趣味はスノーモービルと魚釣り。

仁木芳久さん(61)は、名寄市の出身。
1981年3月に陸上自衛隊に入隊。名寄駐屯地で前後期の教育課程を修了後、第3普通科連隊に配属。途中4年間、釧路駐屯地に勤務した以外は、同連隊の中で異動し、イラク派遣時は重迫撃砲中隊の1曹。
事前訓練を約4カ月間受け、イラクには、本隊第2波の一員として2004年3月13日に出発し、5月下旬の帰国まで2カ月半、警備中隊・小隊の警備組長として任務に当たった。
訓練期間中は、不安や緊張感があったが、現地に到着後は、「やるしかないと思った」と話す。
現地では、はじめにクエートで約1週間訓練し、サマーワ入り。200m四方の宿営地のプレハブで寝泊まりし、その後、コンテナが導入された。
警備業務には、宿営地警備、要人警護、コンボイ(隊列走行)警護などがあり、初めは宿営地警備が多かった。派遣期間中、2回に渡って迫撃弾が周囲に着弾し、「緊張感が走った」と振り返る。
また、「子どもたちが裸足で走り回っていたことが印象に残っている」と話す。
日曜大工が趣味であることから、現地では、物品の梱包材量を用いて哨所(しょうしょ・歩哨・哨兵が待機する詰所)などを制作した。
「イラク派遣は自分が希望した。もう20年も経ったのか」と、当時を感慨深く振り返る。
16年9月に同連隊重迫撃砲中隊を准尉で退職。民間企業を経て、17年4月から名寄地区衛生施設事務組合の衛生センターで夜間警備を担当している。
家族は、妻と2人暮らし。

春田俊幸さん(59)は、鹿児島県種子島の出身。
1983年3月に陸上自衛隊に入隊。前期教育課程を鹿児島県国分駐屯地で修了。同年、後期教育課程を名寄駐屯地で修了後、第3普通科連隊に配属。
派遣前の事前訓練では、「射撃の距離が、従来の訓練より距離が短いなど、初めてのことが多く不安が大きかった」と話し、一方、番匠群長とは、名寄駐屯地時代から、業務以外にも鹿児島県人会で顔を合わせることがあり、「第3派の一員として安心して出発した」と話す。
3月後半の出発から、5月末に帰国するまでの2カ月半、警備中隊の運用訓練陸曹として、本部業務と警備の任務を遂行した。
武器や弾薬の管理などの本部業務が主で、警備中隊の人数が少ない時に警備業務に携わった。「警備業務も、武器・弾薬の管理も、常に不安と緊張の連続であった」と話す。
現地で初めて装甲車を運転し、クエート国境を抜けた瞬間は、「ようやくイラクに入ったと実感した」。また、到着後間もなく、宿営地近郊に砲弾が被弾するなど、「絶えず緊張の連続であった」と語る。
また、当時を振り返り、「20年の歳月が経ったと思うと感慨深い。もう一度現地に行って、現在のイラクがどんな風になっているのかを、自分の目で確かめたい」と述べる。
帰国後は、同連隊の第2中隊、第52普通科連隊(旭川)などを経て、19年2月に同連隊第2中隊で退職。
退職後は、同年4月から会計年度任用職員として、名寄市の浄水場に勤務している。
趣味は、バイクとパークゴルフ。