第11回 島多慶志前市長からの寄稿
前名寄市長の島多慶志氏からいただいた、市町村合併についての寄稿文を掲載する。
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名寄市は、2度の市町村合併を経験してきました。
◇昭和の大合併
昭和28(1953)年に、国は町村合併促進法、昭和31年に新市町村建設促進法を制定し、全国の町村の合併をすすめました。この間、全国の市町村の数が9868から約3分の1の3472に統合されました。
◇名寄町・智恵文村の合併
昭和28年8月に名寄町、智恵文村が合併しています。当時の智恵文村の人口は約4300人で、戦後の教育改革の六・三制による教育施設の整備などで財政を圧迫していました。国は、中学校の運営できる人口規模を、8千人以上に再編する町村合併を推進してきました。
一方、名寄町は市町村合併特例法の適用を受けて、人口3万人から市の要件になることに期待を込めて合併協議を進めていました。
昭和30(1955)年の国勢調査で、自衛隊の駐屯もあり人口が約3万3300人に達し、翌31年4月に北海道内で21番目の市になりました。
◇名寄市のスタートは、財政再建団体の指定
昭和28年8月の合併以降、新規事業の展開や冷害などの対策事業などで昭和30年度決算で、約4千万円の赤字となりました。対応策として、財政再建団体の指定を国から受け、赤字の一括返済を国の資金で行い、昭和31年度から昭和38年度までの8年間で返済するものでした。
財政再建期間中は、市民税の均等割の増税、固定資産税の制限税率の適用、各種使用料の引き上げなど収入増を図り、職員の人件費の削減など支出を抑えることに徹する厳しい財政運営を強いられるスタートでした。このような頑張りで、財政再建期間を1年短縮して昭和37年度で財政再建団体から脱しています。
◇平成の大合併
日本経済が高度成長期から低成長へと移行するなかで民間企業は統廃合を行い、国や北海道も出先機関の統廃合を打ち出し、順次すすめられました。
一方、地方分権もすすみ、地方自治体の仕事で福祉部門や保健事業の専門職の配置が求められるようになってきました。国は、合併特例法等を改正して、地方分権の受け皿としての人口規模の再編を求めてきました。当時の政府与党は、合併後の市町村数を1000とする方針を出していました。平成の大合併により平成22(2010)年時点で、3229の市町村の数が1727に統合されています。
◇近隣市町村との合併協議
上川支庁管内の上川北部は、一つの卵の中に二つの黄身があると言われてきました。士別ブロック、名寄ブロックに分かれ、消防や衛生施設など一部事務組合をつくり共同運営で対応してきた実態がありますが、平成14(2002)年に入り、北海道から地域ブロック毎の合併シミュレーションの情報提供を受けて、名寄市、風連町、下川町で3市町広域行政研究会を作り、研究・検討が始まりました。6カ月の時間をかけて報告書を作成し、それぞれ住民説明会を開催しています。
名寄市は、平成15年5月12日から市内16カ所で説明会を開催しました。参加者も多く、参考までにアンケートを取ったところ、68%が合併を理解して合併に賛成でした。これらの動きを受け、名寄市議会は合併の検討の特別委員会を設置しています。
広域行政で連携の深い名寄ブロックの市町村で、任意の合併協議が9月から始まりましたが、平成16(2004)年1月には、風連町から中川町までの地理的な事情が克服できず、法定協議入りを断念し、1月22日に任意の合併協議会は解散となりました。
同年1月26日、生活圏を同じくする風連町、下川町との合併を、私は両町長に申し入れしましたが、下川町からは「参加困難」との返答があり、風連町との合併協議に絞られた状況になりました。
◇風連町との合併協議
柿川弘町長との間で、合併協議をすすめることに合意を得て、風連町・名寄市合併検討委員会を立ち上げました。
最初に、法定協議会を設置すべきかを問う住民説明会を市内5カ所で開催して市民の理解を求めました。3月30日には、臨時市議会を開催して法定協議会の設置を議決して、合併協議を本格化させました。
4月16日に第1回の法定協議会において、①新市建設計画②基本項目等検討③自治組織検討―の3つの小委員会を設置して具体的な協議が始まりました。基本小委員会では、新市の議員定数を「26人」とすること、夏の暑い中、精力的に小委員会を開催して新市の組織をはじめ、新市建設の基本項目、合併後のおよそ10年間を期間とする「新市建設計画」が練り上げられました。この合意事項を住民説明会で報告し、理解を求めました。
◇JA道北なよろの誕生
平成16年8月20日JA農協の合併調印式に参加しました。道内各地でJAの広域合併が報道されるなか、名寄市内の名寄農協、智恵文農協、風連町の風連農協が合併をして、翌17年2月1日にJA道北なよろが誕生しました。風連町・名寄市の合併の先導的役割を果たしてくれたものと思い出しています。
◇住民合意
風連町民の説明会で、住民投票の要望が出されたと伝わってきました。柿川町長がリーダーシップを発揮されたなかで合併の方向が固まりました。名寄市も広報を通しての合併協議の報告、住民説明会を開催するなど、財政上の優遇措置を活用した都市機能の充実を図りたいと、ぶれることなく合併実現に取り組みました。
◇新名寄市の誕生
平成17(2005)年2月28日に青木次郎上川支庁長の立会いのもと、合併協定書の調印式を行いました。この後、風連・名寄の議会で合併に関する議案が可決されました。
3月28日には、風連町・名寄市の配置分合申請書を上川支庁長に提出して、合併の事務手続きを終えました。
振り返ると、平成16年3月に風連町・名寄市合併の検討を開始して丸2年間、市議会や市民向けの説明会、法定協議に入り風連町・名寄市の両市町の事業の洗い出し、新市建設の方向をまとめた法定協議会の委員各位、事務局で合併に必要な書類の作成に汗を流された職員の皆さんに、改めてご労苦に感謝いたします。
平成18(2006)年3月24日には、百年余りの両市町の歴史を閉じる閉庁式が行われました。
名寄市では、今尚文助役、小栗邦秀収入役、藤原忠教育長が退任となりました。残任期間を残しての退任は、複雑な心境だったのではと思い、名寄市政の推進に理解され、協力をいただいたことに厚くお礼申し上げます。
3月27日、柿川弘新名寄市長職務執行者により市職員に対して辞令の交付など、新執行体制をスタートされました。道の駅の誘致や風連町の中心市街地コンパクトシティ事業に道筋をつけ、新名寄市の誕生にご尽力されました柿川弘氏に、改めて敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。
*肩書は、いずれも当時。

