編者:塩月弥栄子 出版社:作品社 出版年:1987年
『日本の名随筆』というシリーズをご存知だろうか。作品社より出版のアンソロジーで、明治期以降に書かれた随筆・エッセーの中から選りすぐりの名文が各巻30から40編ほど収録されている。驚くべきはその巻数で、なんと本巻100巻、別巻100巻の計200巻。昭和57年から16年以上の歳月をかけて刊行された。各本巻には「花」や「心」、「父」など漢字一文字のタイトル・テーマが与えられ、別巻のほうは「映画」や「星座」というように漢字二文字を冠している。なかには「紙」や「運」、「遺言」や「七癖」など、一体どんな随筆が集まっているのかとタイトルだけで興味をそそられるものもあり面白い。加えて、各巻の編集者は全て異なり、その顔ぶれが豪華なこともこのシリーズの特徴だ。「花」は宇野千代、「恋」は谷川俊太郎、「祈」は石牟礼道子、というように各界を代表する人々が編者を務め、それが200冊もあるのだから圧巻である。
今回はそんな『日本の名随筆』より、塩月弥栄子が編集を担当した「菓」の巻を取り上げたい。この巻では、戦前から子供たちに愛され今は姿を消しつつあるような駄菓子から、ヨーロッパの高級レストランで提供されるスイーツまで、幅広い「菓」が登場する。菓子というのは、好きな人にとってはわざわざ遠くに足を運んだり、取り寄せたりしてまで食べたいものである一方、辛党の人にとっては見るのも嫌なものかもしれない。つまり一種の嗜好品だ。しかし本書を読むと、菓子にはさまざまな物語が詰まっていて、単なる嗜好品を超えた存在であることに気付かされる。
本書には43名による随筆が掲載されており、それら全てが菓子を賛美しているというわけではなく、その内容は菓子を媒介にして大きな広がりを持つ。もちろん、菓子の素晴らしさを説くようなおいしい作品もある。たとえば向田邦子の「水羊羹」。水羊羹のさらりとした味や触感から感じる儚さが見事に言い表されている。冬にでも読もうものなら、水羊羹の季節がまだまだ遠いことを悔やんでしまうこと必須だ。ここで描かれるのは、人々の目と口を楽しませる嗜好品としての菓子である。向田は水羊羹を食べるときに流したい音楽についいても言及しているのだが、好きなお菓子を味わいながら音楽を聴くという時間は、なんと優美で至福だろうか。一方、真尾悦子の「フライパンのメルヘン」という作品では、貧困の思い出とともに菓子が描かれる。夕食に食べる米がないという状況に陥った真尾の一家は、唯一台所に残っていた小麦粉を溶いた生地で花や動物の形の薄焼きをつくり、子供たちを喜ばせる。貧困の底で素朴な薄焼きを楽しむ一家の姿は、食べ物の味のみならず見た目の美しさまでもを追求する現代の贅沢嗜好に疑問を投げかける。
ほかにも、菓子の歴史や銘菓の名前の由来にまつわる随筆や、ある喫茶店を舞台に繰り広げられる色恋沙汰を描いた作品など、菓子という切り口から多彩な作品に触れることができるのが本書の魅力である。マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の有名な書き出しが、紅茶の香りとマドレーヌの味からとある記憶が呼び起こされるというものであるように、菓子は人をさまざまな時と場所に連れ出してくれる。幼いころ食べた故郷の駄菓子の懐かしい味、旅先で出会った銘菓の忘れられない味。甘党でない人にとっても、一つや二つそういった思い出の味があるのではなかろうか。思えば、来客があればお茶請けを用意したり、旅行に行けばお土産に菓子を配るのが一般的であったりと、我々は意識せずとも菓子とともに生きている。つまり菓子とは、生活と文化、そして記憶に密着する存在ではなかろうか。甘いものの好き嫌いにかかわらず、ぜひ本書を介してそんな菓子の奥深さに触れてみてほしい。
書き手:伊東愛奈