フォーカス第5部は、市民や圏域住民の命と暮らしを守る「名寄市立総合病院」について掲載する。
1 名寄町立社会病院の設置とその後の経過①
名寄町立病院の設立に関する建議書が1935年(昭和10年)3月に名寄町内の有志によって提出され、同年4月の町会(議会)で建設が決定。その後、建設に向けた準備が進められたが、建設地をめぐっては、5つの候補地が挙がり、最終的に西4条北1丁目と西7条南6丁目の2カ所に絞られ、議員24人中15人の賛成で西7条南6丁目に決定した。
37年11月24日に前身の「名寄町立社会病院」が開院した。開院当初の職員として、佐藤真幸院長以下、医師6人、看護婦8人の氏名が、新名寄市史に記されている。
町立社会病院は、開院7年後の44年11月、火災により焼失。その後、病院の復興・再建は、終戦前後の名寄町にとって最大の課題であった。
復興・改築後の50年に提出された「名寄町立社会病院条例」によると、「病床100以上、結核病床10以上、伝染病床20以上」で、診療科は内科、小児科、外科、皮膚泌尿器科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、放射線科の8科で、その後、精神科病棟(100床)が設置された。
老朽化が進み、改築工事を実施して62年3月に開院25周年記念式を兼ねて新病棟落成記念式を行った。
70年代の大きな課題は、内科医不在と医師確保で、特に73年からは「内科冬の時代」と言われ、約2年半内科の固定医は不在であった。その他、眼科、産婦人科、耳鼻咽喉科などでも固定医が不在の時期があった。
医師不足などから経営が赤字となって、79年に自治省(現総務省)から「病院事業経営健全化団体」に指定され、不良債務9億4700万円余りを79年度から85年度までの7年間で解消する計画を策定した。計画は順調に進み、1年前倒しの84年度を持って完了した。
健全化計画の完了により、病院の改築計画は始動した。89年(平成元年)度に基本設計を行い、その後に実施設計、本体工事の着工・竣工後、92年6月から新病院で診療を開始。病床数は、一般260、精神165、感染症4の合計429床となった。
准看護婦養成所の設置と廃止
病院設立当時から、看護婦(師)の確保は大きな課題であった。
1941年に病院内に、名寄町立社会病院看護婦講習所が設置された。その後、名称変更を経て、56年に名寄市立総合病院附属准看護婦養成所となった。この間、市立病院はもちろん、地域の看護師(准看護師)の養成に大きく貢献したが、市立名寄短期大学(当時)に看護学科が設置されたこともあり、94年度末を持って廃止された。
地域センター病院・地方センター病院の指定
北海道では、医療行政を計画的に推進するため、「北海道医療計画」を策定している。同計画では、地域の医療需要に応じて、第一次~第三次まで医療圏を設定している。
第一次医療圏は、全道179の市町村単位で設定し、住民に密着した保健指導やかかりつけ医などによる初期医療を提供する基本的な地域を単位としている。
第二次医療圏は、第一次医療圏のサービス提供を広域的に支援するとともに、比較的高度で専門性の高い医療サービスを提供し、概ね、入院医療サービスの完結を目指す地域を単位としている。全道を21の圏域に分けて設定しており、名寄市を含む8市町村で上川北部の二次医療圏を構成している。
第三次医療圏は、高度で専門的な医療サービスを提供する地域単位として「北海道総合計画」と連動させて、全道を6圏域に分けて設定している。名寄市を含む上川、留萌、宗谷で道北三次医療圏を構成している。
名寄市立総合病院は、1984年3月に上川北部第二次医療圏の地域センター病院に、98年3月に、道北3次医療圏の地方センター病院(旭川市を含む上川中南部を除く)にそれぞれ指定された。
これらの指定により、医師・看護師などの職員の充実と必要な設備投資がなされ、地域医療の中核を担う総合病院となっていった。