著者:植本一子 出版社:タバブックス 出版年:2016年
自己愛に欺瞞を抱き、それに対する驕りすら感じながら生きてきた人は少なくない。誰かを愛することは難しい。もっと正確に言えば、揺るぎない愛を保ち続けることは難しいことだとつくづく思う。それが他者に対する愛情だけでなく自己に対しても起きていることは珍しくない。写真家の植本一子による本エッセイにはそのことに振り回され、向き合ってきた軌跡が確かに存在する。
家族のポートレイトや自然光を重視した撮影を行う植本は日本語ラップの先駆者・ECD(1960~2018)の配偶者、そして二児の母でもある。エッセイストという新たな肩書きをもつことになった1冊目のエッセイ『働けECD』(ミュージック・マガジン、2011年)でも家族や夫について描いている。後続する本書ともに、テクストのベースになっているのは日々植本がwebにアップし続けているブログや自費出版したzine(リトルプレス)等である。2011年の春から2015年にかけて書かれた彼女の文章の中には、当時予断を許さない状況が続いていた3.11とその被害を受けた原発の影響に対する不安、毎日の食事、子どもの態度、行った場所、娘の保育園の先生や家族との会話が記録されている。その日記群はどこまでいっても他人の日常である。にも関わらずどうしようもないくらいそこに書かれている心情にあてられてしまうのは、私がいつか辿るかもしれない人生を先んじて語っている予感があるからだろうか。
本書の題にもなっている「かなわない」という言葉は複数の意味を取ることができるのではないか。この題はもともと本書内に収録されている一エッセイのタイトルであった。夫・ECDとの関係について書かれた4ページのテクストである。何気ない言葉と動作によって彼の懐の深さに触れ、「かなわない(敵わない)」と呟く。植本の心情は決して稀有なものではないはずだ。
そして同時に、この言葉が「かなわない(叶わない)」という諦念にも見えるのである。植本の日記の中では、しばしば我が子を愛してゆとりを持って対峙したいにも関わらず、子への怒りが臨界点を超え、自身でもコントロールできないが故に強い態度で子供に接してしまう植本自身が描写されている。また、他方で「石田さん」(ECD)と夫婦であることに対する自信の喪失や焦燥、いや、それよりも孤独であることへの拠り所を感じて何度も夫婦関係の解消を持ち込もうとする不安定さ、配偶者以外の男性との断ち切れない関係への煩悶と終わりなどが描かれる。そうした日々の辛さから「かなわない」とは、自分の理想を掲げすぎて叶わない自分に絶望している(エッセイ後半、その心労は親しい人物のカウンセリングによって徐々に解きほぐされていく)意味での「叶わない」なのではないかと感じてしまう。
2つの意味を意識的か無意識的に宿しているこのタイトルはエッセイそのもの、そして植本が抱える、澱のように重なり、混じり合い、沈んでは浮くことを繰り返すような心の明暗を表しているように思える。いくつもの役割を背負う彼女の惑いや不安定さ、それに向き合う真摯さが読み手に苛立ちや苦しみを与えるほどに切実に書かれている。アイデンティティや家族、育児、夫婦…さまざまな関係性の中に所属し、母や妻、娘、職業の名札を下げて人間は生きているのだと思い知らされる。そしてその名札に人はどれほどの理想とステレオタイプを見、それに縛られているのかと身につまされる。
個人一人ひとりが有する、あるいは保持させられているアイデンティティに疑念や居心地の悪さを感じたことのある人の心に本書は何らかの波紋を投げかけることは間違いない。歪で簡単には安らぐことのできないこの国で、植本の生き方は決して特殊でも不器用でもない。だからこそ彼女が吐き出す言葉は他の誰かの心の中で何となく渦巻いている鬱屈に輪郭やイメージを与える。「私の家族はどんな人に見える?」、「恋人は?」、「親として子供たちにどう思われるのか?」―それは時に都合の悪いことや思い出したくないことは思いがけず読み手である私たちにもまた侵食し、時には理想と現実を一致させていたところに引っ掛かりを覚えるような歪みや隙に気づいてしまうかもしれない。
一方で、このエッセイには彼女が長く抱えていた暗がりから出ようとする仄かな希望もある。「自分を愛してもいいのか?」、「誰かに愛されて生きてもいいのか?」、「他者の評価を受け取ってもいいのか?」―前に進んでもいいし、初めからそのままのあなたが許されていたということもまた、植本の周囲の人物の言葉やそれに対する彼女の気づきによって立ち上がる。植本一子の目まぐるしい日常は言葉になることによって彼女自身のみならず、私たちの終わらない絶望とケアの日々を発生させ誘うのである。「叶わない」と「敵わない」という気持ちや思考が浮上しては沈むことを繰り返し、植本の明日はまた誰かにとっての明日へも繋がっていくのだろう。
書き手:上村麻里恵