BOOKLAB.書籍紹介 海のうた

編者:左右社編集部 出版社:左右社 出版年:2024年

 海を、思い浮かべてみてください。

 それは人で賑わう真夏のビーチだろうか。遠い島国の、サンゴ礁が透き通るエメラルド色の海だろうか。それとも、淋しい漁港だろうか。全てを壊し呑み込んでしまうような嵐の海だろうか。

 世界中の海は繋がっているのに、どうしてこうも異なる表情をすることが出来るのだろうと不思議に思うことがある。ましてや場所は同じでも、時間帯や季節、そのときの感情、一人で見るか、誰かと見るか等、様々な要因で海の見え方はがらりと変わる。私はどんな海にも、その瞬間にしか感じることのできない美しさがあるような気がして、つい何時間も見入ってしまう。そんなふうに海に魅せられたことのある人は、今回紹介する短歌集『海のうた』をきっと気に入る。

 『海のうた』には、百人の歌人が詠んだ百首の海の短歌が収録されている。歌人は全員、現在進行形で日本の短歌界を盛り上げる同時代人だ。巻末には、各歌人のプロフィールや過去の著作情報が掲載されているため、これから現代短歌に触れようとする人にとってのはじめの一冊としても勧めたい。

 百人いれば、百人分の全く異なる海がある。海そのものを詠んだ作品もあれば、なにか別のものから感じた海を詠んだものや、海という単語を使っていないのに強く海を感じる作品もある。多くの人が共感するであろう作品もあれば、強烈な個人の経験が元となっている作品、歌人ならではの想像力や発想力で読者を驚かせる作品もある。収録作品の中から、次の二首を見てみよう。

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の (千種創一、p31)

 写真を撮るつもりが動画モードになっていた、という現代人にとってのあるあるを詠んだ作品。そのまま意味が飲み込めるシンプルな一首だが、さまざまな想像が広がって奥深くもある。たとえば、この動画の持ち主と「君」との関係。今はもう「君」と離れ離れなら胸がきゅっと締め付けられる一首になる。もし今も「君」がそばにいるなら、なんて温かくてかわいらしい作品だろうか。どちらにせよ最後に付け足された「海の」という言葉によって、視界が一気に開けるのがいい。

 こうした現実の一コマを切り取ったような作品もあれば、次のように現実とは異なる次元に思いを馳せるマクロな作品もある。

きみの名になるかもしれなかった名がいまも浮かんでいる海がある (榊原紘、p50)

 名前によって識別される私たちは、名前によって己を保っているとも言える。そんな大事な名前にも、もとはいくつかの候補があって、選ばれなかった名前は呼ばれることも思い出されることもない。その選ばれなかった名前が海に浮かんでいる光景を榊原は詠んだ。命の根源である海に、命を吹き込まれることのなかった名が漂い続ける光景は、ロマンチックでもあり、寂しくもあり、美しい一首だ。

このように、百人による百個の海がこの短歌集の中に広がっている。海は、人間のどんな感情を投影されたとしても、素知らぬ顔をしている。誰かが失意のどん底で海岸を独り歩こうとも、あるいは恋人と砂浜で戯れ幸せの絶頂にあっても、海は圧倒的な大きさで、ただ平然とそこにあるのだ。だから、人は海に様々な思いを託してこられたのではないか。そんな、物理的な大きさを超えた、海の度量の大きさを強く感じる短歌集だった。きっと海をもっと好きになる。

書き手:伊東愛奈

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