著者:水野しず 出版社:講談社 出版年:2023年
数年前ある方に「切ったら血の出るような文を書きなさい」と言われたことがあった。書き手にとって考えなければ死んでしまうほどに切実な事象を、表現を尽くして語ることによって、その文と言葉は脈を持ち、息をしているかのような差し迫った問題や語りとして立ち現れる。文筆家、イラストレーター、歌人、雑誌編集長、モデル、「コンセプトクリエーター」、「POP思想家」ほか、数多の肩書きをもつ水野しずがweb連載を元に編み上げたこの論考集は紛れもなく血の流れた文であろう。彼女自身の抱いた種々の問題に対して言葉と表現を尽くし、解決や昇華を行う彼女の言葉は自身を(誰かを)生かすための演習であり、それを丹念に豊かに何よりも面白く語るその様は独演会を思わせる。人間関係、生活、水野自身の過去のこと、文章の書き方、概念の提唱、読書の話など一見すると統一感がないように思われるトピックの数々は彼女自身が突き詰めなければ死んでしまう物事であり、個人の思想を煮詰めて作られた成果と言えよう。
本書に通底する信念を一つ挙げるとすれば、「マシ」へと向かう過程ということである。本書文中で例示される社会の雰囲気や形骸化した「常識」といった異常さに対して水野は極めて冷静だ。そういった事象に対して彼女は頭ごなしに否定や反抗を示すのではない。なぜその空気感や通念に従ってしまうのかを考え抜き、その上で少しでも「マシ」に生きていくやり方を提示する。マシという言葉には消極的比較の意味が多分に含まれている。一方、本書全体に通底する要素の代表格である「マシ」という概念には水野が捉える社会や人間関係のごちゃつきに対して、全ては革新できないことに対する線引きがありつつも、自己の境界を保ちながら他者に優しい生き方を模索し続けたいという水野の切実な願いが込められている。その冷静さはシニカルさではなく、他者を理解するための眼差しだ。「マシ」に生きていきたいとは、あらゆる身勝手さと通念が混沌と入り乱れた世界で自己の信念を保ち生きていくために、人一人が他者に対してできる理解を限界まで試みた上で折り合いをつけることではないだろうか。他者と世界の面白さの可能性を捨てない彼女が、その世界が楽しさと同時に併せ持つつまらない常識や意味のわからない通念に殺されずに、自己を保持して生きていくための美しい孤独を維持するための思想である。
その語りの豊かさに呼応するように、この本のブックデザインは異端と言っていいほどの工夫がかしこに施されている。本書のデザインを担当したのはブックデザイナーの祖父江慎だ。ここには挙げきれないほど多くの著名な書籍のデザインを手がけ、ともすればその特異なデザインから書籍が話題と人気を集めるほど彼のブックデザインはユニークである。本書のデザインも例外ではない(一般的な書籍からすればかなり異端なデザインではあるが)。文字の上に文字を重ね、章の内容に合わせて紙やフォントを変え、時には体裁ごと変えてしまう。この本を少しでもめくってみれば本書が本という物質ができることを最大限活かし、かつ彼女自身の言葉の持つ蠢きを表していることが読むよりも早く伝わってくる。まさしく水野自身が目の前で語りかけてくるような感覚を覚えるのである。
言葉と表現、そして文字とデザイン、内容でも装丁でも細部までこだわり尽くして作られた本は生きるために心血を注いで作られていることが見れば見るほどに伝わってくる。それは意外性や珍奇さに頼った表現ではなく、むしろ文と本という物質の持つ価値を信じぬき、真剣に向き合った結実だ。心の底からより「マシ」な方へ向かおうとする水野の真剣さとそれに呼応した祖父江のアイディアの豊かさがこの本が持つ雰囲気を決して堅苦しいものではなく、むしろ美しさとユーモアで人を楽しい気分にさせるものにしている。自身の抱いた命題を突き詰めることやこだわることによって文字にも紙にも血の通った書物として存在しているのだ。そのことを手に取って開くことで確かめて欲しい。
書き手:上村麻里恵