フォーカス第6部は、過疎化・少子化が進み人口減少が続いている地域社会において、最も基礎的な活動単位である町内会・自治会のあり方について、「人口減少社会における町内会・自治会のあり方」と題して掲載する。
1 名寄市の町内会①
日本の人口は2008年の1億2808万人をピークに年々減少し、24年1月1現在の外国人を含めた総人口は1億2488万人となっている。24年6月末現在の外国人数は、中長期の在留者、特別永住者を合わせて約359万人で、前年同月に比べて18万人増えている。外国人の増加が、総人口の減少幅を抑えているとは言え、北海道、名寄市においても同様の傾向が伺える。
名寄市の人口は表1の通りであるが、ピークは1960(昭和35)年の4万8180人(国勢調査)で、直近の24(令和6)年9月末の人口は、ピーク時の約半数の2万4881人(住民基本台帳)となっている。
町内会(当時は「町内会・部落会」と呼ばれていた)は、地域の様々な課題を解決し、住民相互の親睦を図ることなどを目的に、自主的に組織された住民団体で、その歴史は明治時代にまでさかのぼる。
当初は、地域住民の自主的な組織であったが、旧内務省が40(昭和15)年に部落会・町内会等整備要領(内務省令)を発している。これは、戦争を遂行するために全国民を網羅する町内会・部落会等の組織と、下部(実行)組織である「隣組」を結びつけ、国民の団結、経済統制などを図ることが目的であったと想定される。
戦後の47(昭和22)年に内務省令は廃止された。名寄市における町内会・部落会は、「地域では、その組織をそのまま存在させて、地域の親睦や組織を通して行政連絡に当たっていた」と、新名寄市史に記されており、全国的にも町内会・部落会は、多くの地域で存続されていたものと思われる。
また、名寄市史によると、名寄町(当時)は、町内会・部落会を行政区として位置づけ、会長を連絡員として委嘱していた。51年(昭和26)年当時、町内会19、部落会18の合計37の行政区があり、その後、61(昭和36)年4月に「名寄市行政委員設置規則」を制定して連絡員を行政委員に改め、その身分を明らかにした。69(昭和44)年当時は、智恵文村との合併、自衛隊官舎の建設、市街地の拡大などもあり、行政区は67存在した。行政委員が置かれていた時代は、行政の補完的な組織として位置づけられている面もあった。
戦後の民主化が進むなか、住民の自主・自発的な活動とその組織化の重要性が求められるようになり、行政の補完組織ではなく、主体的な活動としての地域町内会づくりをめざして、75(昭和50)年に「名寄市町内会・部落会連合会」が結成され、82(昭和57)年に名称を「名寄市町内会連合会」に変更した。その後、地域住民の自主的な活動としての町内会活動を発展させるため、行政委員制度は91(平成3)年に廃止された。
06(平成18)年3月の風連町との合併を経て、24(令和6)年度現在、町内会は72ある。
町内会の加入率は、風連地区の町内会が連合会に加入した10(平成22)年度は82・81%と比較的高かったが、15(平成27)年度78・45%、20(令和2)年度74・65%、現在は69・9%となっており、年々減少している(町内会毎の世帯数の内訳は表2の通り)。
全体の傾向として、風連地区、智恵文地区など郊外・農村地区は平均して加入率は高いが、市街地区の一部では、学生や転勤者などが多いこともあり、50%を切る町内会も存在する。
事務局を担当する市総合政策部は、転入者への町内会加入促進リーフレットの配布、各町内会で使用するオリジナルチラシの作成、新規採用市職員に対しての職員研修での町内会加入促進、町内会ごとの加入促進チラシ等の未加入世帯への投函―などを実施して、加入促進に努めている。


-743x1024.jpg)
年度町内会連合会総会-1024x683.jpg)