第10回 柿川弘元風連町長に聴く
1997(平成9)年4月から2006(平成18)年3月26日まで旧風連町の町長を務め、新市長が選出されるまでの約1カ月間、新名寄市の職務執行者を務めた柿川弘氏に合併当時の話を聴いた。
──国は、行財政の効率化などを図るため、市町村合併を推進しました。特に、三位一体改革などにより地方交付税が削減され、小規模市町村が単独で生き残るのは困難な状況が生まれてきました。03年に上川北部5町村で任意合併協議会が設立され、名寄市は後から加入しましたが、結果的に任意協議会は解散となりました。5町村の名寄市に対する温度差は、どのようなものでしたか。また、本格的な合併協議を始める前、町議会では、合併協議に対して、名寄、士別両方の意見があり、僅差で名寄が上回った―とお聞きしました。その辺はいかがでしたか。
柿川 合併協議は、美深町の岩木実町長が上川北部の町村の首長に呼びかけたことが始まりでした。当初、5町村で任意協議会を組織し、後から名寄市が加入しました。岩木町長が任意合併協議会の会長となり、事務局を美深町におき、各市町村から職員1名を派遣することになりました。しかし、美深町議会への説明が十分ではなく、議会側から反対の声が数多く上がりました。美深町長からは、「議会が通りそうもない」などの申し入れもありました。中川町の亀井義昭町長からは、「名寄市と飛び地になるが、名寄市との合併を検討したい」などの相談も、私にありました。色々なことがありましたが、結果として、面積が人口に比べて広すぎた―などの問題もあって解散となりました。
士別とは、農業が産業の中心など共通する面はありますが、合併協議の件は、議会内部の話であったと思います。
──任意協議会の解散後、島多慶志市長と協議し「風連町・名寄市合併協議会」(法定協議会)が設置されました。途中、風連町では住民投票を求める声が多数出され、結果として住民投票を実施。約65%が合併に賛成でした。途中、慎重・反対派が「名寄市との合併を考える会」を結成するなどの動きもありました。当時を振り返っていかがですか。
柿川 任意協議会の解散後は、合併特例法の適用を受ける期間内の合併に時間がありませんでした。島市長には、私の方から「思い切って、名寄と風連でやってみませんか」と声をかけました。下川町は、合併協議への参加は困難であると思っていましたが、島市長に話をして、協議への参加を呼び掛けてもらいました。結果として、下川町は参加せず風連町と名寄市の合併協議となりました。下川町を含んだ3市町の合併では、まとまらなかったと思います。私と島市長の「阿吽の呼吸」であったような気がします。
住民投票については、民意が示されたことでやって良かったと思っています。反対派の動きも、大きな声にはならなかったように思います。困ったのは、前町長が反対していたことです。住民投票で結果が示されたので、納得されたと思います。町職員は、自ら率先して説明会に出向いてくれました。私も後から出席しましたが、合併推進に向けて大きな動きになったと思っており、職員には感謝しています。
──住民投票の結果、細かな部分を含めた合併協議が法定協議会でなされ、1年後の06(平成18)年3月に合併となりました。同協議会設置後は、合併後の新市の骨格(名称、庁舎など組織の在り方、議員定数、新市建設計画)を協議した大変な2年間であったと思います。また、3月24日の閉庁式、27日の新市開始式、新市長が決まるまでの職務執行者としての業務など、正に多忙を極めていたと思います。いかがでしたか。
柿川 JA道北なよろの誕生も、合併に後押しとなりました。組織機構の問題は、名寄側が一定の配慮をしてくれ、風連庁舎2部、名寄庁舎3部(現在は4部)となりました。風連から、「何部と何部がほしい」などの要望はしていません。風連側に気を使ってくれたものと思っています。ただ、新市の名称は、農協合併で誕生した「道北なよろ農協」のような「ひらがな」、面白い名前の市町村が他で誕生していたこともあり、「名寄」で良いとの意見は住民から出されていました。
閉庁式、開庁式は、「一人娘を嫁に出す」ような心境で、「うれしさ半分、寂しさ半分」の思いでした。職務執行者としては、市立総合病院の辞令交付と市立大学の入学式が思い出されます。病院の辞令交付は、職種や肩書が長くて大変で、途中から部署や役職の読み上げを辞めた覚えがあります。大学では、第1期生の入学式で祝辞を述べました。大学側が原稿を書いてくれて助かりました。
──合併後、風連地区は、道の駅、市街地再開発事業などの大型事業を先行実施できました。旧風連町時代の懸案でもあったと思いますがいかがですか。
柿川 市街地再開発事業は、風連町時代からの懸案で、島市長と一緒に国土交通省に要望に行きました。担当者からは「小さいまちの力になり、モデル的な良い事業」と言われました。当時は、事業者から前倒しを求める声がありました。現職の時に着工することもできましたが、「新市の事業としてスタートすべき」との思いから新市長に委ねました。地権者からの要望など様々な声もあり苦労しましたが、診療所や農協の移転新築などもでき、良かったと思っています。特に、診療所長であった久保田宏先生には感謝しています。
合併の前後は、合併特例債の使い方が議論になりました。口の悪い人からは「合併したら、特例債は全部名寄に持っていかれる」などと言われたこともありました。特例債が、その後どのように使われたかは分かりません。
全体として、合併が決まってからは、法定協議会の委員や職員の協力もあり、順調に進んでいったと思っています。
──全道・全国の一部の市町村から、合併して寂れたなどの声も聞かれます。風連地区の状況を含めて、合併後の20年を振り返っていかがですか。
柿川 人口減少は風連地区も名寄地区も進んでいますが、「合併して寂れた」との声は聞いていません。
──最後に、今後の10年、20年を目指したまちづくりについて、どのようなことを望まれますか。
柿川 農業の分野でも、中核農家1戸当たりの耕地面積は年々拡大し、個人での経営は限界に来ています。行政も手を打って、持続できる農家を育てていかなければならない。後継者がいない農家ばかりになってしまいます。
風連町時代に作った農業振興センターは、島市長から「合併後は名寄でも活用したい」との話があり、現在に至っています。当時の職員には、「5年に1回くらいは、新作物や新品種などの改良を実施してほしい」と話していましたが、実現していないので今後に期待したい。農家が良くなれば、地域の経済は回っていきます。農業の面を含めて、若い人たちが望むようなまちづくりを進めてほしい。
島市長との合併協議は、顔色を変えて議論することはなく、和やかなうちに協議が進み合併できました。島市長、今尚文助役をはじめとする多くの名寄の人たちの配慮があったと思っており、感謝しています。
*肩書は、いずれも当時。

