廃止から35年 名寄本線

鉄道存続断念、バス転換へ 3セク化で部分存続案もあったが…

第2次特定地方交通線として廃止承認となった名寄本線。特定地方交通線対策協議会も開始され、沿線自治体は廃止反対と存続を強く訴えてきた。
そういった中、1988年(昭和63年)9月1日、自民党と社会党の政治折衝により、比較的乗降客数が多かった名寄~下川間(16.5km)と紋別~遠軽間(49.9km)を第3セクター化して部分存続させる案が浮上した(下川~紋別間はバス転換)。
政治決着の動きに対し、沿線市町村では「トカゲの胴切り」と訴え、あくまで全線存続を前面に打ち出した。
88年9月16日、政治判断を受けて、北海道は第3セクター案を示した。
前提条件として、要員は名寄~下川間で25人のうち20人、紋別~遠軽間で53人のうち42人はJR北海道からの出向で7年間限り。JR出向者の人件費は半分をJRが負担するとした(7年間限り)。
車両はJRのものより3割ほど安い新型車を購入。運賃は初年度5%で、以降5.3%と10.3%で毎年交互に引き上げ、10年間でバス運賃と同水準まで引き上げる。人件費は3セク職員で毎年2.8%引き上げ、物件費は毎年1.3%引き上げるとした。
前提条件をもとに収支を試算すると、転換交付金(1kmあたり3000万円)から初期投資(旅客用車両、保守用車両、車庫、検修機器、保守用機器、設備改良など)と定期運賃差額補助を差し引いた基金への繰入額として、紋別~遠軽間は3億8400万円を捻出したが、名寄~下川間では初期投資と定期運賃差額補助が転換交付金を上回り、最初から1400万円の赤字となった。
転換交付金は名寄~下川間で4億9500万円、紋別~遠軽間で14億9700万円。初期投資で名寄~下川間で5億0600万円、紋別~遠軽間で11億0300万円、定期運賃差額補助は名寄~下川間で300万円、紋別~遠軽間1000万円と試算された。
基金積立額は15年間元金を取り崩さず、基金の利息(運用利率は年5.4%)で赤字を補填することを前提とした場合、名寄~下川間が16億円で、北海道8億円、名寄市と下川町で8億円の負担。紋別~遠軽間は31億円で、北海道15億5000万円、転換交付金から4億円、紋別市と湧別町、上湧別町、遠軽町で11億5000万円の負担が必要とされた。
単年度の収支でも、名寄~下川間は1年目に1億0600万円の赤字で、法律補助により地元負担は5300万円となるが、法律補助が無くなる6年目は9900万円の赤字、JRの人件費負担が無くなる8年目は1億1600万円の赤字。紋別~遠軽間は1年目に2億1400万円の赤字で、法律補助により地元負担は1億0700万円となるが、6年目は1億9300万円の赤字、8年目は2億2900万円の赤字が見込まれた。
沿線自治体では「地元負担が過大すぎる」「将来のことを考えた場合、鉄路を残すべきだ」と大きな議論が巻き起こった。
88年10月5日、全線存続を知事に要請するが、「法律の壁は厚く、これ以上は突破できなかった。沿線市町村と道関係者が頑張った結果の政治判断であり、道としてはこれ以上のことはできない」と断られた。また、地元負担の第3セクターで全線を運行することも「運輸審議会を通せない。従って開業免許の取得も困難」と突っぱねられた。
地元負担が重かったことから、88年10月15日、名寄本線対策協議会の総会で、全線の存続を断念することを確認した。10月29日に名寄、下川の2市町長と議会議長の4者協議で、名寄~下川間の第3セクター化は断念、バス転換することで合意。11月1日には紋別、湧別、上湧別、遠軽の4市町長会議で、遠軽~紋別間も3セク化断念、バス転換に合意した。これにより、名寄本線は全線バス転換ということになり、68年間の歴史に幕を閉じることになった。
88年11月24日に特定地方交通線対策協議会が開かれ、正式に全線バス転換が決定した。当初は89年(平成元年)4月1日に鉄道廃止、バス転換の予定だったが、沿線自治体では「安全運行の確保を図るため、一定期間の試験運行が必要」「4月からのバス運行は物理的に難しい」などを理由に、バス運行開始の1カ月延期を道に申し入れた。89年1月31日の同協議会で、名寄本線は4月30日で最終営業運行、5月1日に鉄道廃止、バス転換することで合意した。
(続く)