自衛隊イラク派遣から20年 8

8 藤田明大司令と加藤剛士市長に聞く

名寄駐屯地から、イラクの第 1次復興支援に多くの隊員が派遣され20年が経過しました。藤田明大名寄駐屯地司令と加藤剛士市長に20年を振り返り、名寄駐屯地が果たした役割と留守家族などを支えた当時の状況、今後について話を伺った。

―はじめに、イラクへ第1次復興支援群が派遣された当時、藤田司令、加藤市長は、どのような立場で、どのような思いでしたか。
藤田 20年前は、自衛官になって駆け出しの頃でした。スタートが、東北の第6師団大和駐屯地の第6戦車大隊に2000年から勤務していましたので、正にその頃でした。イラク派遣前にも、当時の駐屯地から、東ティモールに先輩が派遣されていました。イラクの復興支援にも、第4次だったと思うのですが、第6師団から先輩が派遣され、その準備等をしている時期だったと思います。
自衛隊に入って幹部候補生学校で職種が決まります。私は機甲科です。職種を何にしようか迷いがありまして、人の役に立ちたいと思い、具体的には、国際平和協力活動に従事したいとの思いがありました。国際活動に行ける職種を希望したのですが、残念ながら、希望はかないませんでした。身近な先輩が国際平和協力活動に参加していたため、自分も行きたいという強い憧れがありました。自衛隊という組織に入った以上、人の役に立ちたいと強く思っていました。
加藤 1998年に名寄に戻り、2002年に名寄青年会議所に入会、3年目にイラク派遣がありました。当時は、会社の仕事をしながら、道議会議員の父を支える仕事もしていました。自衛隊とは関係も深かったので、何かしたいとの思いがあり、青年会議所の委員会活動(会員拡大、会員親睦)の中で、OBを巻き込んで活動しました。現役会員でOB世帯を訪問し、無事帰還を願って黄色い鶴を、千羽鶴、万羽鶴として作りました。
現在は、駐屯地の北勝館に飾られていると思います。合わせて、番匠群長から商工会議所が依頼され、こいのぼりを集めました。
イラク派遣を目の当たりにして、自衛隊との関係性をもっと深くしていきたいと思うようになりました。その年に、委員会活動の中で、自衛隊の体験入隊なども行いました。
―イラク派遣の第1次復興支援群長に番匠司令(当時)が任命されたことについて、改めて、その意義と名寄駐屯地が果たしたイラク派遣の役割について司令からお聞かせください。また、留守家族支援など、主に名寄地方自衛隊協力会が中心となって果たした役割について、市長からお願いします。
藤田 物事をやる時に、最初と最後というのは大変難しい。最初というのは、行き足をつける大変さ。最後は、どこで切るのかを含めて役割があり難しい。最初の役割を第3普通科連隊が担ったことは、全国の自衛隊で、名寄の駐屯地が精強な部隊として認められている証だからこそ選ばれたのだろうと思います。
以降も任務が続きますが、1次隊が先陣の任務をしっかりと遂行したことで、その後に繋がったのではないかと思っています。
加藤 関連してですが、当初は、派遣の目的が復興支援であることから、後方支援連隊が主力であったと聞いています。ただ、今回のイラクへの復興支援は、大変厳しい任務になることが予想され、何が起きるか分からない。しっかりとした普通科を中心とする実力部隊が担うべきではないかとの議論が制服組の中で出され、最初に第3普通科連隊が行くことになったと聞きました。色々と波紋もありましたが、結果として、全員が無事帰還し、任務を完遂したことは大変大きかったと思います。
当時、名寄地方自衛隊協力会が中心となって、名寄商工会議所内に留守家族支援本部を立ち上げました。本部長代行として当時の木賀義晴商工会議所会頭、自衛隊協力婦人会の吉田美枝子会長などが、大変なご尽力をいただいたことが、留守家族支援本部の記録として残っています。名寄だけでなく、隊区管内から派遣されている自衛隊員全ての留守家族を対象とし、協力婦人会の会員を中心にして多くの留守家族宅を訪問しました。これらの留守家族支援、地域で支えた活動は、名寄モデルとして、2年くらい続いたイラク派遣隊員を支える活動として、全国の支援活動の礎になったと思います。
―イラクへの派遣後も名寄駐屯地からは、海外での復興支援などに派遣されています。名寄駐屯地のイラク派遣以降の主な国際貢献活動についてお聞かせください。
藤田 イラク派遣以降も、代表的なものとしてゴラン高原、ハイチ国際救援隊、ソマリア、南スーダンなどがありますが、派遣の規模からいっても、第1次イラク復興支援軍が一番大きいです。
―イラク派遣から20年が経過し、22年12月に、「国家安全保障戦略」など防衛3文書が改訂されました。今後、名寄駐屯地が果たす役割はより一層重要になると思いますが、その辺について司令からお聞かせください。また、駐屯地を支える市民や協力会の役割について、市長からもお聞かせください。
藤田 国家安全保障関連3文書が出されて1年以上が経過しました。この中の国家防衛戦略で、3つの目標、3つのアプローチが定められました。アプローチの話から申しますと、我々自身が強くなること、日米同盟を進化させること、そして、同志国と呼ばれる国と連携を図って抑止体制をしっかり整え、防衛強化、対処力を身につける。我が国の防衛力体制の強化。―ざっくり言えばこのような形の内容です。
これに伴い、名寄駐屯地としても、変わる部分と変わらない部分があると思います。地理的にいうと、変わらない部分は、日本の陸上自衛隊の最も北にある駐屯地です。3文書の中で書かれている脅威認識は、ロシア、中国、北朝鮮です。その一つであるロシアとは、国境に面しており、我々がしっかりしないと、隙を見せることになる。我々が気を抜いてやっていると、その緩みが、全体の安全保障環境にも影響を与えると思っています。最北に位置する駐屯地としての役割は、今後も変わらないと思っています。
変わる部分としては、脅威というのは時代の変化とともに、さまざま変わりうると思っています。近年、サイバー、電磁波、宇宙など科学技術の動向、発展に伴って、いろんな新しい脅威が出てきている。それに対応しうる部隊である必要があり、そこは、しっかりと訓練を積み上げることが大事であると思っています。
加藤 自衛隊協力会の会長という立場を、市長就任以来14年間お預かりしています。そのような関係から、防衛省の皆さんともいろんなお話をさせていただいています。その中で、名寄という場所が、地政学的に非常に重要な場所だと改めて認識しているところです。要衝地としての名寄の重要性というのは非常に大事で、我々は、この地域に営みをして、居住していることそのものが国を守ることにつながる。なおかつ、自衛隊があることが、北のロシアと、海外との国境を守っていると改めて感じ、責任があると思っています。
自衛隊の装備や役割は進化し、高度化していくとのお話がありましたが、国を守っていくために、これからも変化をしていかなければならない。このことに関しては、絶対的に応援していかなければならないですし、名寄駐屯地増強促進期成会の要望活動でも早くから取り組んでいます。国を守ることの大切さ、憂いなく仕事してもらうために、今後もしっかりと支えていきます。
合わせて、自衛隊の任務も、大変多岐にわたってきています。今までやってきたことが、全てできなくなるかもしれない。我々で、足りないところを補えるのであれば、支援をしていきたい。そのためには、自衛隊の定員をしっかりと守っていく。一方、隊員の募集状況が厳しいので、協力会の中でも、支援をしていかなければならないと強く感じています。
―最後に、派遣後20年を迎え、市民の皆さんに今後も含めたメッセージをお願いします。
藤田 あらためて、20年を振り返り、当時番匠閣下が作った規律やルールは、今でも残っています。伝統と言うべきかもしれませんが、例えば、自衛隊の車両を止めるときしっかり線を合わせなさい。テントを張る時は、直角・水平に合わせなさい。これらは敵から見ると、規律がしっかりしている強い部隊と思われ隙が無い。これらのことは、今でも隊員の中に根付いています。
厳しい国際情勢の中で、最北の駐屯地としての役割は、今後、益々重要になってくると思います。
市民の皆さんとは、距離の近さ、温かさ、信頼して理解いただいていることを日頃から感じています。我々の活動を理解していただくためにも、今後は、さらなる情報発信に勤め、地域とのつながりを深めていきたいと考えています。
加藤 最近の内閣府の「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」では、自衛隊に対する印象について「良い印象を持っている」割合が90%を超えています。20年前は、青年会議所のOBの中でも、「自衛隊の海外派遣を支持できない」との声が身近にありましたが、日本の数ある公的・民間組織の中で、これだけ、国民の支持がある組織は、自衛隊だけではないかと思います。その大きな要因は、国際貢献活動や災害支援活動における自衛隊の活躍だと思います。
大きな流れの変化になったのが、間違いなくイラクの復興支援活動です。その先陣が、名寄の駐屯地から派遣された第一陣で、このことは、市民の皆さんにも凄いこととして、もっと誇りを持ってほしいと思います。名寄の自衛隊は、これだけ凄い役割を果たしてきた。それは、名寄の自衛隊が頑張ってきたことと同時に、留守家族支援などを支えてくれた多くの諸団体の皆さんのおかげです。改めて、20周年を機に、市民の皆さんに理解してほしいですし、自衛隊に対して誇りを持ってほしいと思っています。
(松島)